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第49宿御嶽宿みたけじゅく
          (前半)
 細久手宿を出た旧中山道は、御嶽宿を目指して平岩の辻から
山中に入り、何ヶ所かの峠を越え、幾つかの集落を通り、2箇所の
一里塚を通過していく。その道程は3里(約11.8km)。

平成21年12月3日   「唄清水」に「一呑の清水」、飲みたくなりますねー。

 細久手宿を出て平岩の辻を越え、坂の途中から左の道に入り、秋葉三尊石窟前を通り過ぎると「雑木林の中の旧中山道」(左)は落ち葉の絨毯。かさこそという心地よい音を聞きながらの街道歩きである。

 まもなく「鴨の巣一里塚」(右)に到着。 ここは左右とも現存しているという貴重な一里塚。面白いのは、右と左が対面ではなく16mほどずれているのである。これは珍しい。

 一里塚の先から御嵩町(みたけちょう)に入るが、この先はうねうねと曲がった下り坂が続く。

 坂の終わり近くに「山内嘉助屋敷跡」(左)と刻まれた石碑が。ここは江戸時代に酒造業を営んでいた豪商の屋敷があった場所。今は石垣だけが残されている。

 屋敷跡の先から津橋の集落を通って中山道道標の前から再び山の中に入って行くのだが、ちょっと寄り道を。

 道標の手前を右に曲がって3〜4分、さらに100段以上の階段を上った先の「熊野神社」(右)に農村歌舞伎の回り舞台が現存している。 が、荒れ放題となっているのが残念。

中山道道標まで戻り、小さな集落の中を通って再び山の中へ。

 しばらく山中の道を歩くと「御殿場跡」(左)と刻まれた石碑が建てられている。ここは峠の頂上で見晴らしが良い場所。皇女和宮降嫁の際、休憩所となる御殿が造られたのだとか。


 御殿場跡からは下り坂。すでに初冬であるが途中で見事な紅葉が見られたので1枚。

 下り坂を4〜5分歩くと「唄清水」(左)と銘々された水場がある。傍らの石碑に 「馬子唄の響きに浪立つ清水かな  五歩」とある。五歩とは庄屋の千村柾重のことだが、この唄にちなみ「唄清水」。

 さらに坂道を下ると、今度は「一呑(ひとのみ)の清水」(右)。

 文久元年(1861)、皇女和宮が降嫁の際、この清水を賞味され大変気に入ったとか。後に永保寺に滞在の折、この清水を取り寄せて点茶されたのだそうだ。

一呑の清水からは車道を歩くのだが、すぐに十本木立場跡碑の先からまたまた山中に分け入っていく。

 数分ほど歩くと小さな集落の入り口に「謡坂十本木一里塚」(左)が復元されている。取り壊された一里塚を昭和48年(1973)に復元したのだそうだ。


 この辺りは立場があった場所だが、一里塚のすぐ先に「十本木の洗い場」(右)と呼ばれる池がある。ここは立場時代の共同洗い場。お母さん方が並んで食器を洗ったりしていたのだろうか。

 

 洗い場の先に一軒の大きな家があるが、ここは安藤広重の「木曽海道六拾九次之内 御嶽宿」(左)のモデルとなった場所だと云われている。
言われてみればその様な。


 その先の坂を下ると「謡坂(うとうさか)の石畳道」(右)となるのだが、この時期(12月初旬)は落ち葉に埋め尽くされ石畳が見えない。

 謡坂を下ったところに「マリア像」(左)への案内板があったのでちょっと寄り道を。

 昭和56年(1981)、道路工事を行っていたところ偶然キリシタン信仰の遺物が発見され、この地に多くのキリシタン信者が居たことが判明。当時の過酷な弾圧に耐えた先祖を慰霊するために建立したのだそうだ。

 マリア像のちょっと手前に「正岡子規句碑」(右)がありました。
 撫し子や 人には見えぬ 笠のうら   子規

 旧中山道に戻り橋を渡って4〜5分、道路際の階段を上った先は耳の病気にご利益があるという「耳神社」(左)。お供えしてある錐を借りて耳にあてるのだそうだ。耳の病気に錐とは、変わっているね〜。

 しばらく車道を歩き、集落を抜けたら再び山中へと入っていく。

 山中の道へ入って4〜5分、石室の中にひっそりと「寒念仏供養塔」(右)がたたずんでいる。1年でもっとも寒い時期に村人が集まり、鐘をたたいて念仏を唱えると、願いがかなったのだとか。

 まもなく西洞(さいと)の急な下り坂となるが、この坂を通称「牛の鼻欠け坂」(左)と呼んでいる。地元にはこんな唄が伝えられているそうだ。
 牛坊(うしんぼ) 牛坊 どこで鼻欠いた 西洞の坂で鼻欠いた

 牛の鼻欠け坂を下った旧中山道は山裾を通って「国道21号に合流」(右)。この辺りからやっと平野部を歩けるようになる。

 しかし御嶽宿はもう少し先だ。

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