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第48宿細久手宿ほそくてじゅく
 細久手宿は、大湫宿と御嵩宿の間が4里半と長かったことから、
慶長15年
(1610)に新しく開かれた山間の小さな宿場である。
 町並みに当時の面影は少ないが、尾州家定本陣であった
大黒屋の建物が、当時の宿場の雰囲気を感じさせてくれる。

平成21年12月3日    「くじ場跡」 と刻まれた石碑がありました。 くじ場 なんだろうか?

 大湫宿を出てから琵琶峠を越え、八瀬沢一里塚を通り、弁財天池前を通って到着した所は「奥之田一里塚」(左)。この一里塚も県道の両側に当時のまま現存している。

 街道はこの後も県道を歩くのだが、車の往来が少ないのでのんびりと歩くことができる。

 道端の馬頭様を見たりしながらかれこれ20分。人家が見えはじめると「まもなく細久手宿」(右)である。

 町並みに入って数分、「細久手宿高札場跡」(左)と記された標柱が道端に建てられている。当時はこの辺りが宿場の一番外れだったのだろうか。

 標柱の脇を入った高台に「庚申堂」(右)が見えるが、ここは宿内の人々や旅人の憩いの場として親しまれてきた 「細久手宿の庚申様」。 境内には江戸時代の石仏や石塔が沢山並んでいる。

 現堂宇は寛政の大火後、享和2年(1802)に再建されたのだとか。

 もう少し歩くと大きな駐車場があり、その一角に細久手宿説明板が設けられている。これによると、慶長11年(1606)に7軒屋と呼ばれる小さな仮宿が設けられ、慶長15年(1610)に正規の宿場として整備されたのだそうだ。

 説明板の道路対面に立派な本卯建の上がった古民家がある。ここが旧中山道を歩く旅人にとっては貴重な宿の「大黒屋」(左)。私もぜひ泊まりたかったのだが、予約が取れず無念の涙。

 大黒屋は尾州家定(さだめ)本陣を務めた旅籠で、本陣並みの扱いがされていたそうだ。現在の建物は大火で類焼後の安政6年(1859)に再建されたもので150年ほどの歴史を持つ建物である。

 ちょっと先が「本陣跡」(右)だが、現在は標柱があるのみ。本陣の対面に脇本陣があったのだが、こちらは表示も無い。
注:大井宿を出ると、太田宿までの間の宿泊施設は大黒屋のみ。交通も極めて不便なため、必ず事前の予約が必要です。大黒屋の予約が取れなかった場合は、
  手前の大湫宿からJR釜戸駅まで下り(徒歩1時間ほど)、恵那駅あるいは中津川駅まで戻るとビジネスホテルが利用できる。


 宿のはずれにある神社に寄り道をと街道から横道に入ると、なかなか睨みの利いた猫がいる。

 「そこの旅人、ここは俺の縄張りだ、勝手に入ってくるんじゃねえぞ。まして、だまって写真なんか撮るんじゃねえ」 と言っているような。

 猫に挨拶して神社の参道を上ると、風情のある「山灯篭」(右)があるではないか。自然石を組み合わせたこの灯篭は嘉永年間(1848〜54)に建立されたのだとか。

 街道に戻り数分歩くと街道際に「穴観音」(左)が鎮座している。寛政13年(1801)建立の馬頭観音であるが、「九万九千日観音」とも呼ばれている。なんと、観音の日に拝むと9万9千回の御利益があるそうだ。

 街道は、小さな祠だけの津島神社先で、左に曲がる道と分かれ真っ直ぐに進んでいく。

 その先に「旧中仙道くじ場跡」(右)と刻まれた石碑が建てられている。 「くじ場」 そうなんです、くじ引き をした場所なんです。 誰がって、駕籠かきたちが荷の順番を決めるために。

 山裾の道をしばらく歩き「平岩の辻」(左)と呼ばれる変則五差路に出たら真っ直ぐ進んで坂を上っていく。

 旧中山道は、坂の途中にある左仲仙道西の坂と刻まれた道標の前から左の砂利道へ。

 さらに坂道を上っていくと「秋葉坂の三尊石窟」(右)が見られる。祀られているのは明和5年(1768)の馬頭観音や観音坐像など3体。行き交う旅人や牛馬の安全を見守っていたのだろう。

この先は馬頭観音や道祖神を見ながら雑木林の中を気持ち良く歩くことができる。


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