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第46宿大井宿おおいじゅく
   (前半)
 大井宿は美濃十六宿の中でも大いに繁盛した宿場であった。
宿場内を通る街道には6ヶ所もの枡形が残っており、道巾も当時のまま。
 本陣門や当時の商家、宿役人の家など、昔の面影を残す建物なども
多く残っている。

平成21年11月10日    ぜひお勧めしたい「中山道広重美術館」

 長かった中津川宿から、いよいよ大井宿に入るのだが、その入り口には味のある「中山道碑」(左)が据えられている。

 ここを過ぎると上り坂となるが、この坂を「広久手坂」(左)という。

 広久手坂先の交差点向こうに「常夜灯と岡瀬澤碑」(右)が見える。遠州秋葉山に向かう道筋でもあったこの辺りは、かつては牛宿などもあり賑わっていたのだが、今はひっそり。

 交差点を通り過ぎて次の坂道を上っていくと、源頼朝の家臣 根津甚平是行に由来すると云う「甚平坂」(左)に差し掛かる。

 坂の途中に「馬塚と犬塚」(右)があるが、ここは塩尻宿の先で通ってきた「桔梗が原」と根津甚平に関係する伝説が。

 信濃国の「桔梗が原」に八重羽の雉という化け鳥がいたそうだ。この化け鳥、里人や旅人に危害を与えていたため、鎌倉幕府から退治を命じられた根津甚平が犬と鷹を連れ、馬に乗って雉を追い、この坂まで追い詰めたのだが、馬はここで倒れ、犬はなおも追い続けたが、日吉(現瑞浪市)で力尽きてしまったのだった。
里人が、ここに馬と犬のなきがらを葬ったという。

 甚平坂を上り数分、街道際の広場奥に建てられているのは江戸から87番目となる「関戸一里塚跡碑」(左)。


 まもなく県道に突き当たるので左に曲がると、下り坂の途中で「背の高〜い石塔」(右)が目にはいる。なんとなんと、4m近くもあるこの石塔は延宝8年(1680)に長国寺住職が平和を願い建立したのだとか。

 旧中山道はその先の菅原神社前の階段を下っていくのだが、下った辺りを寺坂と呼んでおり、大井宿の入り口となる。

 坂の途中に「上宿石仏群」(左)があるが、ここは大井宿を一望できる高台。宿の人たちは宿内への悪病や悪人の侵入を防ぎ、宿内の無事息災を願って数多くの石仏を建てていたのであった。

 坂を下ったら明智鉄道のガード下を通り、南無阿弥陀仏碑のある丁字路を左に曲がって、ちょっと寄り道を。

 突き当たりの長国寺「西行法師葬送之寺」(右)として知られている。ご住職の奥様の話によると、残念ながら西行の墓は無いが、本堂の奥に位牌が安置されているそうだ。

 街道に戻り1〜2分。「五妙坂」(左)という急坂を下っていくのだが、けっこうきつい坂。上りでなくて良かったー。

 坂の途中に「高札場」(右)が復元されている。「徒党礼」「親子兄弟礼」「火付け礼」などに混じってキリスト教を禁止した「キリシタン礼」も掛けられている。

 中山道は五妙坂を下った先の上横橋を渡り左に曲がるのだが、ここが第一の枡形で、曲がった先が「横町」である。

ここから平成21年11月11日

 100mほど歩くと県道に突き当たるがその手前角が「本陣跡」。残念ながら昭和22年(1947)の火災で建物は焼失したが、江戸時代初期の建築と云われる「本陣門」(左)は幸いに焼失を免れたのだった。

 中山道は本陣跡の前を右に曲がって行くが、ここが 第二の枡形 で、曲がった先が「本町」である。

 右に曲がって50〜60m歩くと「ひしや資料館」(右)の紺の暖簾が目に入る。ここはかつての庄屋「古山家」の建物で、明治初年に改築されているが、当時の町屋建築の様式がよく残っている。

 ひしや資料館の先、1〜2分の所に「宿役人の家」(左)がある。本陣から分家し、代々問屋を務めていた林家だが、部屋数14室を有する大型旅籠でもあった。

 その先の岩井家の建物が「明治天皇大井行在所跡」(右)で、石碑が2基も建てられている。

 明治13年(1880)の中山道御巡幸の折、明治天皇は旅籠兼商家の伊藤家(現岩井家)に宿泊されたのだった。泊まられた奥座敷はそのままの姿で保存されているそうだ。

 岩井家の対面が「高木家脇本陣・下問屋跡」(左)だが、建物は現存せず、説明板が設置されている。ちなみに上問屋跡は、第二の枡形を曲がった先の民家軒先に小さく上問屋跡と表示されている。

 問屋跡のちょっと先に旅館があるが、かつては「角屋」という旅籠であった。その手前を右に曲がる道が 第三の枡形

 竪町の中ほどに「庄屋古屋家」(右)の屋敷門が見える。外からは見えないが、家の北側防火壁は厚さ30センチにも及ぶ土壁になっているのだとか。

 古屋家の前を真っ直ぐ進み、突き当たりを左に曲がる道が 第四の枡形 で、枡形の先が「茶屋町」である。

 枡形の向こうに見える「市神神社」(左)は、元々は上宿で煙草の市を開いていたのだが、明治24年(1891)に現在地に移されたそうだ。

 茶屋町の中ほどに 白木番所跡 の説明板が掲げられているが、さらにその先の突き当たりを左に曲がる道が 第五の枡形 。ここを左に曲がり60〜70m歩いて、今度は右へ曲がる道が 第六の枡形 となる。

 最後の枡形を曲がると、今は立派な「大井橋」(右)が架けられているが、当時は川の真ん中に島を作り木の板を渡しただけの簡単な橋が架けられていたそうだ。

 宿場街を抜けた旧中山道は中央通りの広い交差点を横断していくのだが、交差点を渡らず左に曲がると、数分のところに「中山道広重美術館」(左)があるのでちょっと寄り道を。

 歌川広重の 「木曽海道六拾九次之内」 などの浮世絵を中心にした展示や、大井宿の版画を手刷りするコーナーなども設けられているので時間が許せばぜひ見学したい施設である。

 街道に戻り交差点を渡ると、格子戸に軒卯建のしゃれた和菓子店が。創業90年という「菊水堂」(右)のお勧めはやはり「栗きんとん」。

 菊水堂を出て暫く歩くと「中野村庄屋の家」(左)という建物がある。和宮降嫁の際、助郷のことで「熊崎新三郎事件」が発生したが、その舞台となったのが庄屋宅であった。

 門横にある「変わった石柱」(左)は、川が氾濫した際、板をはめて浸水を防止するためのものであったそうだ。

 庄屋宅のすぐ先左側の「中野観音堂」(右)は、今時には珍しく扉が開けらており、仏様を拝むことが出来る。ここはまた 中野村高札場 があった場所でもある。
助郷:参勤交代など大きな集団が宿場を通過する際は宿場の人馬だけでは不足するため、周辺の村から人馬の調達を行う制度。

 観音様に旅の安全を祈願したら長島橋を渡り、県道の五叉路を越えて暫く歩くと「西行硯水」(左)と記された公園がある。

 文治2年(1186) 奥州の旅に出た西行は、帰途、木曽路を経てこの地を訪れ三年間暮らしたという。歌人である西行は、こんこんと湧き出るこの泉の水を汲んで墨をすったのだとか。

 公園を出るとすぐ先に「西行塚碑」(右)が街道際に建てられている。いよいよここから大湫(おおくて)宿までは山中の旅となるのだが、先ほどからの雨がいっそう強くなってきた。残念ながらここでリタイアである。




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