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第45宿中津川宿なかつがわじゅく
   (後半)
 江戸時代を堪能することが出来た中津川宿を後にして、中津川橋を
渡るとその先はのどかな田舎道が続いていく。


 次の大井宿までは3ヶ所もの(そのうち1ヶ所は大井宿近く)一里塚を
通り過ぎなければならない。3時間ほどの街道歩きになりそうだ

平成21年11月10日     「双体道祖神」ならぬ「双頭道祖神」が見られます。

 旧中山道は、中津川橋を渡り5分ほど歩くと津島神社参道と刻まれた石柱があるので、この前を左に曲がり坂道を上っていく。

 さらに5分ほど歩くと「駒場村高札場跡」(左)がある。石柱が建てられ、簡単な高札が掲げられているが、ここ駒場(こまんば)村は東山道時代の坂本駅(宿駅)が置かれていた場所ではないかと云われている

 坂本駅の場所は諸説あるので定かではないが、こんな道標がありました。

 さらに道なりに進むと、「小手ノ木坂」(右)と刻まれた石碑が建てられているが、脇の階段を上がる道が旧中山道である。

 階段を上った先の苗木道との分岐点で「双頭一身道祖神」(左)と呼ばれる変わった石仏が見られる。頭は男女別々だが肩から足までは一身。双体道祖神の多い信州でも見かけなかった像形だ。


 道祖神から数分歩くと江戸から85番目となる「上宿一里塚跡」(右)がある。左右とも消滅してしまった塚を、ちょっと小さいが昭和9年(1934)に街道の右側だけ復元したのだとか。

 一里塚の先は坦々とした道が続くが、道なりに20分ほど歩くと「小石塚立場跡」(左)の石碑が建てられている。その昔、「恋し塚」とも呼ばれたこの地に数軒の茶屋があったそうだ。

 今は茶屋ならぬコンビニがあるので、ちょっと立ち寄ってお茶でも買っていこうか。ついでにおでんも買っていこう。

 立場跡の先は国道19号の拡張工事で「埋もれた中山道」(右)になってしまった。ここは国道の側道を進み、中央高速のインターチェンジ下を回り込むと旧中山道に復帰できる。

 旧道に復帰して5〜6分歩くと「六地蔵石幢」(左)という珍しい六地蔵に出会える。中山道を行きかう旅人の安全を願って明暦3年(1657)に造立されたというが、石燈籠型とは珍しい。


 この先も坦々とした道が続くが、しばらく歩くと道路際に「千旦林村の高札場跡」(右)と刻まれた石碑が建てられている。この辺りを「札の辻」と呼んでいるが、かつては人口600人弱の集落であったそうだ。

 さらに数分歩くと道は二手に分かれるが、「旧中山道」(左)は左の細い道に入って行く。

 旧道に入ると、田んぼの中の道であったり、焚き火があったりと、昔ながらののどかな道だ。

 ほどなく「三ツ家の一里塚跡碑」(左)が現れる。上宿の一里塚から4km、1時間の街道歩きであった。この先は横断地下道を通って、と言いたいところだが、ほとんど車が通らない車道なので車道を横断。

 坂を上りきったところに「坂本立場跡碑」(右)がぽつんと立っている。ここは千旦林村と次の茄子川村の境界だった場所。「中山道筋道の記」には5軒の茶屋があったと記されている。

立場跡から「坂本坂」を下っていくと「忘れ去られたような石塔群」(左)に出くわす。道路際にきれいに並べられているのだが、なんとなく殺風景なのは、お参りする人が居ないからだろうか。

 街道は、坂を下って橋を渡り、住宅街を抜けいく。

 再び「尾州白木改番所跡」(右)がある。尾張藩は木曽からの木材の搬出にはことのほか厳しかったようで、各所に番所が設けられている。これらの施設も明治4年(1871)の廃藩置県で廃止となった。

 番所跡からしばらく歩くと、街道沿いに趣むきある古民家が見えてきた。茄子川村(なすびがわむら)(元)庄屋「篠原家」(左)である。

 篠原家は中山道の休泊施設として本陣や脇本陣と同様の役割を担っていたのだが、和宮や明治天皇が休憩した部屋や厠、表門などは当時のまま保存されているそうだ。

 篠原家の隣から、遠州秋葉山へ通じる秋葉道が分岐している。その入り口両側に設置されているのは安永5年(1776)と享和3年(1803)の建立の「秋葉常夜灯」(右)。

 茄子川村を過ぎると旧中山道は再び山間のひなびた街道となる。

 まもなく中津川市から恵那市に入るが、その境界に建てられていたのは自然石に「中山道」(左)と刻まれた味わい深い石碑。

 長かった中津川宿もここまで。この先からは大井宿である



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