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第43宿馬籠宿まごめじゅく
 木曽11宿最後の宿場である馬籠宿は、明治28年(1895)と大正4年(1915)の2度の大火で石畳道と枡形道以外は全て焼失してしまった。
 後に復元された宿場町は、島崎藤村の生誕地であり、「夜明け前」の舞台でもあることから人気の観光
スポットとなっている。

平成21年9月15日   馬籠と言えば島崎藤村ですね。

 妻籠宿を出てかれこれ2時間。大妻籠を通り、男滝・女滝を見て、立場茶屋で梅酒をご馳走になり、その先は桧林の中の旧中山道をあえぎあえぎ上って到着したところは「馬籠峠頂上」(左)。

 ここは標高801m。ずいぶん高地へ来たと思ったが、かつて通ってきた奈良井宿は900m、宮ノ越宿は800m、木曽はどこも高地だ。

 峠の茶屋横に「正岡子規句碑」(右)が建てられている。
  白雲や 青葉若葉の 三十里   子規
子規の紀行文 「かけはしの記」の中に記されている句である。

 峠から県道の下りに入ると「いよいよ岐阜県」(左)。ついに木曽路から美濃路の旅かー。しかし馬籠宿は信州だったはずだがなー。

 調べると、平成17年2月に越県合併で岐阜県中津川市に編入していたのです。しかし馬籠と言ったら信州ですねー。と言う事で、信州木曽路の旅はまだ続くのです。

 県道を下って1〜2分、右側の細い下り坂が「旧中山道」(右)である。木曽11宿の最後、馬籠宿が近い。

 県道から分かれて5〜6分、熊野神社の先に間宿・峠集落がある。宝暦12年(1762)の大火で建物の大半が焼失してしまったが、その後再建され、以降は大火が無かったため再建時の建物が今も多く残っている。

 集落入り口にある古民家は大火後に再建された「旅籠桔梗屋」(左)で、現在は民宿を営んでいるそうだ。

 江戸時代の面影残る集落を下ってくると、集落の終わりごろに「峠之御頭頌徳(しょうとく)碑」(右)が建てられている。

「おい、峠の牛方衆 中津川の荷物がさっぱり来ないが、どうしたい」とは「夜明け前」の一場面。問屋と牛方の争いを収めたのは牛行司・利三郎こと今井仁兵衛、彼の高徳に感謝して建てた碑なのだそうだ。

 頌徳碑から数分下ると「十返舎一九歌碑」(左)が。
 渋皮のむけし女は見えねども 栗のこはめしここ乃名物 十返舎一九

 ここは古くから栗のこわめしを名物にしていた所。渋皮の剥けた女(垢抜けた女性)だって居たと思うよ。

 さらに7〜8分下ると水車小屋が見えるが、その傍に「水車塚」(右)が建てられている。明治38年(1904)の山津波で亡くなった蜂谷家の供養塚だが、文字は島崎藤村の筆なのだそうだ。

旧中山道は水車塚の先で県道を横断し「中仙道」と刻まれた道標脇から石畳道へ入っていく。

 しばらく歩くと再び県道に合流するが今度は県道を数分歩き、道標に従って右側の階段を上がっていく道が「旧中山道」(左)。

 階段を上がった先の新しく出来た遊歩道を通っていくと (旧中山道は民家の軒先を通っていたが、今は通れない)「馬籠 上陣場跡」(右)に到着する。

 ここは最近整備された展望広場だが、戦国時代の小牧・長久手の合戦の折、徳川勢の菅沼・保科・諏訪の三武将が馬籠城を攻めるために陣を敷いた場所、なのだそうだ。

 展望広場には何基かの石碑が建てられているが、その中の一つに「島崎正樹歌碑」(左)がある。
 釈分 みすず刈る信濃の国の真木立つ木曽の谷の外名に負える神坂の邑は山並みの宜しき里川の瀬の清亮けき・・・・・・・・
 正樹(藤村の父)自筆の掛物を刻したもので、原寸大なのだそうだ。

 陣場跡から街道に戻り、坂道を下るとすぐの所に「高札場」(右)が復元されている。 聞こえた観光客の会話 「これが江戸時代の高札場だよ」 「すごーい、江戸時代のがまだ残っていたんだ」

 高札場の先に「中山道馬籠宿」(左)と刻まれた石柱が建てられているが、「京まで五十二里半」とも刻まれている。三条大橋まで約206km、まだまだ遠い。

 「馬籠宿」(左)は、山の尾根道であった中山道の両側に石垣を積み上げて平地を作り、家を建て増していったという独特の街造りをしている。

 今は石畳道の両側に民芸品店やお食事処が並び、「宿場町」というより「観光地」という雰囲気が強い。

 石畳道を下って最初の見所は「脇本陣跡」(左)である。 蜂谷家が務めていたが、建物は明治の大火で焼失。今は脇本陣資料館となって焼失を免れた当時の関連資料を展示している。


 脇本陣跡の横にある石碑は「山口誓子句碑」(右)。
    街道の 坂に熟柿 灯を点す   誓子
刻まれている文字は誓子自身の筆、なのだとか。
 

 脇本陣跡の1軒先がお土産・お食事処の「大黒屋」(左)であるが、かつては造り酒屋であった。その10代目が書いた「大黒屋日記」が島崎藤村の「夜明け前」執筆のきっかけになったという。

 大黒屋の隣が「本陣跡」(右)で、島崎藤村の生家でもある。今は「藤村記念館」となっており、藤村に係わる資料の展示や、焼失を免れた祖父母の隠居所の公開などが行われている。

 ところで、藤村の初恋の相手が隣の大黒屋の娘、おふゆさんであったそうな。おふゆさんは妻籠宿の脇本陣林家に嫁いでいる。

 藤村記念館隣の古民家は「四方木屋」(左)という茶房だが、この建物は藤村の長男楠雄のために、藤村が農家を移築したもの。今のオーナーは藤村の孫にあたる故島崎緑二さんの奥様だそうだ。

 さらに石畳道を下り、右に曲がった先の永昌寺の墓地の中に「島崎家の墓地」(右)があるが、数ある墓標の中に島崎藤村の墓標を見つけることができる。

 島崎藤村は、晩年を過ごした神奈川県大磯の自宅で生涯を閉じ、大磯町地福寺に埋葬されたが、こちらに遺髪と爪が収められている。


 街道に戻り、ちょっと歩いた先の古民家は「清水屋資料館」(左)。清水屋(原家)は宿役人を務めた旧家だが島崎家と親交があり、藤村晩年の作「嵐」の森さんは清水屋の原一平がモデル。


 清水屋の先が京側の「枡形道」(右)。今は新しい道が作られてしまったため分かりづらいが、枡形出口から振り返って写した左側階段が旧枡形道の一部である。

 枡形道を抜け県道を横断すると、その先は時々車が通る静かな田舎道。

 暫く歩いた先に見えたのは「馬籠城跡」(左)の説明板。

 室町時代から続いた馬籠城は、徳川方の菅沼・高遠(保科)・諏訪の三軍に攻められそうになったが、守っていた島崎重路が妻籠城に逃げたため戦火を免れ、以来戦火の無いまま廃城。

 その先の諏訪神社入り口に建てられている石碑は「島崎正樹翁碑」(右)。「夜明け前」の主人公青山半蔵のモデルであった正樹翁を記念するもので、明治45年(1912)に建てられたもの。

 通る車も無い静かな街道を10分ほど歩き、、緩やかな坂を下っていくと、公園の一角に大石が見えるがこれは「正岡子規句碑」(左)。

 桑の実の 木曽路出づれば 麦穂かな  子規
正岡子規が故郷松山に帰郷の途中、この辺りで詠んだ句である。


 この「公園から眺める景色」(右)が素晴らしい。特に落合から中津川の町並みが夕焼けに染まる様は表現のしようが無いほど美しいのだとか。この日は残念ながら曇っており、夕焼けとはならなかった。

 坂道を下ると、江戸末期に十曲峠から移ってきた立場の新茶屋集落に入るが、ここに「芭蕉句碑」(左)がある。

 芭蕉が中山道を旅したのは貞享5年(1688)、その旅を更科紀行として世に出したが、その中の一句
 送られつ 送りつ果ては 木曽の穐(あき)   芭蕉翁

 その先の石碑に「是より北 木曽路」(右)と刻まれている。「これより南 木曽路」の石碑を見てから11宿・22里余ついに木曽路の旅も終わりとなった。

 木曽路碑の先に「新茶屋一里塚」(左)があるが、ここは街道を挟んで両側に現存しているという貴重な一里塚。右側の一里塚には「一里塚古跡」と刻まれた石碑も建てられている。

 一里塚の隣に建てられている「国境の碑」(右)には、「信濃」の隣に「美濃」の文字が刻まれている。ついに美濃路に足を踏み入れたわけであるが、美濃路は十六宿。まだまだ長い旅になりそうだ。

 街道はこの先の十曲峠を下って美濃路最初の宿場である「落合宿」へと向かっている。



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