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第42宿妻籠宿 つまごじゅく
 古くから宿場町としての機能があった妻籠宿であるが、本格的整備が
行われたのは五街道が制定された慶長6年
(1601)からである。
 伊那街道との追分でもあったことから大変賑わっていたが、明治以降、
鉄道の開通と共に通過する旅人も無くなり寂れた宿場町となってしまった。

 しかし宿場時代の町並みが残っていたことから、これの保存に積極的に
取り組んだことで、第一回「重要伝統的町並み群保存地区」に選定され、
今は観光地として再び賑わいを取り戻している。

平成21年9月14日   時代劇のセットかと思うような町並みに観光バスのガイドさんが。これが以外と似合うのです。

 車も人も通らない山間の道を上ってくると、「旧中山道草道」(左)が残されていた。迷わず右へ。すぐに元の道に戻ってしまうが、合流点の手前に崩れ落ちそうな廃屋が1軒。

 軒行灯にしろやま茶屋と記されているが、いつ頃まで営業していたのだろうか。

 茶屋の先で先ほど別れた道に合流するが、その先で道は三方に分かれる。妻籠宿への「旧中山道」(右)は真ん中の道を下っていくのだが、ちょっと寄り道を。

 脇道に入り、山道を10分ほど上ったところが「妻籠城址」(左)である。妻籠城は典型的な山城であるが、小牧長久手の戦い、関ケ原の戦いの折にはここも戦場となっている。写真は主郭があった場所。

 街道に戻り旧中山道の坂道を下って10分、格子戸の前に旅籠行灯が置かれ、軒行灯には「御宿大吉」(右)とある。腰をかがめて入るくぐり戸が時代劇を思い出させるが、ここが今夜の宿。

 このすぐ先は妻籠宿。明日は江戸時代が堪能できそうだ。

平成21年9月15日

 宿場入り口に「鯉岩」(左)なる大岩がある。木曽路名所絵図に描かれた鯉岩は正に鯉。ところが、明治24年(1891)の濃尾地震で形が変わってしまったのだとか。残念


 鯉岩の斜め対面にある建物は南木曾町有形文化財「熊谷家住宅」(右)と説明板に記されている。19世紀初頭に建てられた長屋の一部なのだそうだ。

 熊谷家住宅のちょっと先の広場は「口留(くちどめ)番所跡」(左)。正保3年(1646)の資料に「妻子御関所」と記されているそうだ。妻籠が妻子ではちょっとなー。「さいし」と読んでしまいそうな。

 番所跡の横にある地蔵沢橋を渡り、坂を下るといよいよ妻籠宿に入っていくが、坂の途中に「高札場」(右)が復元されている。

 左上の高札に「何事によらず、よろしからざることに 百姓大勢申合せ候をととうとなえ、ととうしてしゐてねがひ事くわたつるをこうそといひ・・・」(百姓が徒党を組んで願い事を企てることを強訴という・・・) お上の考えは昔も今も変わりませんなー。

 坂を下った先から妻籠宿の町並みが始まるのだが、さすが「重要伝統的町並み群保存地区」だけあって古民家が連なっている。

 しかし奈良井宿とはちょっと雰囲気が違う。家が一軒一軒分かれており、もう少し近代的な町並み とでもいったらよいだろうか。

 町並みに入って数分、門柱に 南木曾町博物館 の表札があるが、ここは「脇本陣奥谷(おくや)(左)。木曽桧をふんだんに用いて明治10年(1877)に建てられた林家の建物は国重要文化財に指定されている。
コメント:奥谷は林家の屋号

 林家は島崎藤村の「初恋」に詠われたおふゆさんの嫁ぎ先。ぜひ見学せねば、と思ったら、がーん、まだ朝八時半。

 街道を挟んだ対面に見事な軒卯建の建物があったので1枚。入り口のくぐり戸に記された屋号は「柏屋」(右)。

 柏屋の先が代々島崎家が務めた 「本陣」(左) である。 残念ながら明治半ばに取り壊されてしまったが平成7年(1995)に復元され、内部を公開している。見学したいのだが、まだ扉は開きそうにない。

 妻籠宿の本陣・脇本陣には「人馬会所(問屋場)」(右)が併設されており、宿場の中でも最も賑わった場所であった。

 実は妻籠宿の島崎家と、これから行く馬込宿の島崎家とは親戚関係。お互いにかなり深い行き来があったようだ。
 妻籠宿の島崎家から馬籠宿の島崎正樹(馬籠宿本陣最後の当主/夜明け前の主人公青山半蔵)のもとにおぬいさんが嫁いでいる。その4男が
島崎藤村こと春樹である。また、藤村の次兄広助は妻籠宿本陣の養子となり最後の当主となっている。

 本陣の少し先にある出梁造り黒塗りの建物は「妻籠郵便局」(左)。 江戸時代の建物と思いきや、昭和54年(1979)に建てられたもの。黒塗りのポストも江戸時代の「目安箱」を復元したものだとか。

 このこだわり、いいですね〜

 その先の突き当たりを右に曲がると京側の「枡形道」(右)となる。ということは妻籠宿もここまで?
 ところが、枡形道を下っていくと、「さらなる江戸時代」がありました。

 坂道を下り左に曲がると、「時代劇に出てきそうな」(左)古民家が連なっている。七人の侍か、三匹の侍か、はたまた椿三十郎が、ふらっと向こうから歩いてきそうな。


 すぐに先ほど分かれた道に合流してしまうが、合流点手前に「下嵯峨屋」(右)という江戸時代の建物が展示されている。2軒長屋の1軒分を解体・復元したものだそうだ。石置きの屋根が江戸時代だねー。

 合流点の「延命地蔵堂」(左)内に、文化10年(1813)5月に、近くの蘭(あららぎ)川から引き上げたという「延命岩」(左)が鎮座している。

 旅人から地蔵尊が浮かび出ている岩のことを知らされ、ここに安置したのだそうだ。

 すぐ隣の祠の中に祀られている石塔は「寒山拾得像」(右)。寒山拾得を題材にした「箒と巻物を持った人物の双体像」が刻まれているそうだが、風化が進んでいてよく分かりません。

 延命地蔵堂の先も出梁造りに千本格子が嵌め込まれた古民家が連なる「妻籠宿」(左)。まるで時代劇のセットのような。本陣などがあった中心街から外れるが、むしろ風情ある町並みはこちらの方である。


 町並みの終わりで「上嵯峨屋」(右)と表示された建物が目に入った。江戸時代中頃の建物を解体復元したものだが、木賃宿であったそうだ。木賃宿では、旅人は雑魚寝であったそうな。

 上嵯峨屋の先からは、ごく普通の田舎道。数分歩いたところに「おしゃごじさま」(左)が祀られている。土俗信仰の神様である「御左口神」を祀ってあるのだが、謎が多い神様なのだそうだ。

 旧中山道はこの先から蘭(あららぎ)川沿いを歩き、国道256号を横断。道標に従って歩くと 大妻橋 に到着する。

 橋の手前、民家の庭先に高さ3m超という巨大な「石柱道標」(右)が建てられている。明治14年(1881)建立ということだが、よくもまあこれだけ大きな道標を立てたものだ。

 旧中山道は大綱橋を渡ったら道標に従って右の「草道」(左)に入る。神明集落の間を通って暫く歩くと、さきほど分かれた県道に再び合流。

 合流したら神明橋を渡ってさらに上っていくのだが、橋の手前に「中山道 大妻籠」(右)と記された軒行灯が掛けられている。
ごく簡単な行灯だが、味があるね〜

 「大妻籠」と言われると、妻籠より大きいのかと思うが、大は奥が訛ったとも云われている。ということは「奥妻籠」。なるほど納得。
 

 県道を上り、大妻籠の看板中山道 大妻籠道標に従って右に曲がると「水車小屋」(左)がある。木曽路に入ってから何回か水車小屋を見たが、いつ見ても絵になる。

 水車小屋前を通り過ぎると、昔ながらの風情が残る大妻籠の集落。

 まもなく軒卯建の立派な古民家が何軒か見えてくるが、「御宿まるや」(右)は寛政元年(1789)から旅籠を営んでいるそうだ。宿泊した旅人によると、囲炉裏端での夕食が忘れられない思い出になった、とか。

 その先に「県宝 藤原家住宅」の案内があるので右に曲がり坂道を上っていくと、農家の庭奥に江戸時代の「藤原家住宅」(左)が。

 建築年代は17世紀半ば頃と推定され、長野県内で最も古い建物なのだそうだ。解体復元工事が行われ今は自由に見学できるが、場所が藤原家の庭奥、家人がいる場合はちょっと挨拶を。

 藤原家住宅に行く途中で見た「真っ白な猫」(右)、とっても内弁慶なんだ。飼い主さんがそばに居たときはフーと威嚇してきたのだが、離れたらご覧の通りおとなしくなってしまったのだった。

 街道に戻り、山裾を道なりに進むと県道に合流するが、合流点に「庚申塚」(左)がある。塚の上には道標を兼ねた庚申碑が建てられているのだが、ここでちょっと気になることが。

 かつて中山道を歩かれた方々の記述を読むと、ここが「大妻籠一里塚跡」だという。また、この後ろにある小山が「一里塚?」(右)だという記述もあった。しかし一里塚にしては高すぎる。

  周囲を探しても一里塚に関する案内や説明板が全く見当たらない。 ???である。

 県道に出たら右に曲がるとすぐに「旧中山道石畳道」(左)が見える。入り口に「とうがめ澤 下り谷・・・・・・馬籠峠へ」と刻まれた道標が建てられているので分かりやすい。

 石畳道を上り、林の中のつづら折を上っていくと目の前が突然に開ける。山の中腹というのに段々畑ならぬ段々田んぼが。

 その向こうに「ソバ畑」(右)が見えるが、今 正に真っ白い花が真っ盛り。近づいてよく見ると、なんと、花びらの一部が赤く染まっているではないか。新発見。

 小さな木の橋を渡り町道に合流すると「倉科祖霊社」(左)の小さな堂が階段の上に見える。祀られているのは松本藩の重臣倉科七郎左衛門朝軌の霊。次のような史実があるそうだ。

 時は天正14年(1586)、松本城主小笠原貞慶の命を受けて豊臣秀吉のもとに使いに行った帰り、この先の馬籠峠で土豪の襲撃にあい、従者30余名とともに討ち死にしてしまったのだとか。

 さらに緩い坂道を上っていくと馬籠宿への「道標」(右)があるが、その上に、「野生動物が出没します」と。むむっ、熊の絵が。

 馬籠と妻籠の間は多くのハイカーが行き来するので心配は無いと思うが、念のため熊除けの鈴を。しかしチャリンチャリンうるさいんだナー。
旧中山道はここで町道と分かれ左の草道に入っていくのだが、ちょっと寄り道を。

 町道の坂を下ると、吉川英治の「宮本武蔵」にも登場する「男滝」(左)と「女滝」(右)を見ることができる。

 「宮本武蔵 第三巻 女滝男滝」の章に次のようなくだりが。

 「・・・・・武蔵様」
  お通は、立て札の文字を見て、その眼を武蔵に移してほほ笑んだ。女男(めおと)の滝とそれは読まれた。大小二すじの滝が、一つ渓流へ落ちている。やさしいほうが女滝とすぐわかる。

 滝を見た後どこをどう間違えたか集落に入ってしまったのだが、そこで見た「柴犬」(左)が可愛い。さっそくカメラを向けると。
 犬好きにとっては、このカメラ目線がなんともたまらないね。

 熊が出るという看板まで戻ったら旧中山道に入り、しばらく歩くと、今度は県道に合流。

 男垂川(おたるがわ)沿いの県道をちょっとだけ歩き「旧中山道 木橋」(右))を渡り対岸へ。せせらぎの音を聞きながら歩く林の中の道はなんとも心地よい。

 旧中山道はこの先で県道を横断し、バス停・峠入り口 の横から再び山道へと分け入っていく。

 山道へ入って1〜2分、「さわらの大樹」(左)に出会うことができる。下枝が立ち上がっているが、このような枝ぶりをもった木を「神居木(かもいぎ)」と呼ぶそうだ。この木は両神居。珍しい!

 この枝に神様が腰掛けたのだそうだが、もしかしたら神様ではなく天狗であったかもしれない。しかも親子の天狗が。


 「旧中山道」(右)はこの先も桧林の中を進んでいく。

 さらに1〜2分歩くと「一石栃白木改番所跡」(左)の広場前に出る。木曽から移出される木材を取り締まるために設けたもので、小枝に至るまで許可を示す焼印があるか調べるほど厳重であったとか。

 番所跡のちょっと先は 「立場茶屋跡」(右)。 往時は七軒ほどの家があったそうだが、今は江戸時代後期に建てられたという牧野家住宅が無料休憩所として頑張っている。

 管理人さんが太っ腹な人で、「畑で採れたトマトだ食べていきな」とか「うちで作った梅酒だ、飲んでみい」。  では遠慮なく。




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