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第38宿上松宿 あげまつじゅく
 上松宿は江戸時代から桧の集散地として発展した町であった。
昭和25年
(1950)の大火で町並みのほとんどを焼失してしまったが、幸いに上町だけは火災をまぬがれたため往時の面影がよく残っている。
 また、「木曽の桟」や「寝覚の床」、「小野の滝」など木曽随一の景勝地を楽しむこともできる。

平成21年6月24日     なんと、浦島太郎が使っていたという 『 釣竿と硯 』 がありました。

 ガードレールの無い歩道?を怖い思いをしながら歩くと、ようやく「木曽の桟(かけはし)(左)の道路標示が。

 鉄橋を渡って対岸に行くと「木曽の桟跡」(右)がよく見える。国道19号の工事を行う際、当時の石積みを、一部だが残してくれたのだとか。

 最初は右写真のように、崖の中腹に木組みで桟を作ったのだが、旅人が落とした松明で焼失。後に尾張藩が石積みの桟を作り上げたのであった。

 鉄橋を渡った対岸に「芭蕉句碑」(左・右)が2本建てられているが、1本は道路左側にある。(左写真)
  (かけはし)や 命をからむ 蔦かつら   芭蕉翁


 もう1本は右側の道路外にある岩の上に建てられている。(右写真)

  芭蕉翁   かけはしや 命をからむ 蔦かつら

 道路左側にはもう1本、「正岡子規の句碑」(左)も。
   かけはしや あぶない処に山つつじ    子規
   桟や 水にとどかず5月雨       子規
   むかしたれ 雲のゆききのあとつけて
        わたしそめけん 木曽のかけはし   子規


 子規句碑のそばに「馬頭観世音」(右)の石仏があるが、傍らの説明板に「上松町内には5百体を越す馬頭観音がある」と記されており、馬が貴重な存在で、しかも大切にされていたことが想像できる。

 桟跡から先も国道19号が旧中山道であるが、歩道が無いので大型トラックが怖い。ここは安全をとって対岸の道路を歩くことに。

 しばらく歩いて振り向くと、先ほど渡ってきた「木曽の桟に架けられた鉄橋」(左)が見えるが、この景色がなんとも素晴らしい。思わず1枚。

 さらにしばらく歩くと真っ赤に錆びた鉄橋が現れるが、これは木曽ヒノキを運び出した森林鉄道用の「鬼淵鉄橋」(右)。昭和50年(1975)まで使われたということだが貴重な歴史遺産である。

 鬼淵鉄橋の先がちょっと分かりにくいが、その先のループ橋に沿って歩き左側のJR中央西線のガードをくぐると旧中山道に復帰できる。

  旧中山道に復帰して十王橋交差点を渡ると「高札場跡」(左)があり、説明板が建てられている。ところが、文字が擦れてほとんど読み取れない。残念だなー、立派な説明板なのに。

 説明板の裏に鎮座している石仏は「十王堂の石仏群」(右)。

 ここは十王沢と呼ばれているが、かつて十王堂があった場所。慶応2年(1866)の洪水で流されてしまったのだが、そのとき一緒に流され、下流で発見された石仏を集めて祀ったのだそうだ。

 石仏群脇の橋を渡るといよいよ「上松宿上町」(左)である。上松宿はたびたび火災にあっているが、特に昭和25年(1950)の大火では上町以外の上松宿がほとんど焼失してしまったという。

 しかし、火災からまぬがれた上町には出梁造りの古民家が並び江戸時代の雰囲気がよく残っている。 

 町並みに入って数分、案内に従って左の路地を入ると「八幡神社(右)に行かれる。本殿は江戸時代中期の代表的な社殿建築で、上松宿の文化財に指定されている。

 街道に戻って少し先を左に入ると玉林院に行かれるが、ここの「山門鐘楼」(左)も江戸時代中期のもの。棟札に明和3年(1766)11月に落成と記されているそうだ。

 玉林院裏手の山は「木曽氏館跡」(右)と云われているが、解説板によると、木曽氏十九代義昌の弟義豊の居館だったそうだ

 木曽義昌といえば、天正10年(1582)、鳥居峠で武田勝頼軍の2千余兵を迎撃し勝利を収めた武将。武田方500余名の戦死者で埋まった「葬沢」が思い出される。

 再び街道に戻ると、その先に 「といや」 と書かれた木札が下げられた青瓦屋根の家があるが、ここは「脇本陣跡」(左)の原家。江戸時代は「問屋、庄屋」も兼ねていた。


 脇本陣の斜め先が「本陣跡」(右)で、現在は歯科医院に変わっているが、藤田九郎左衛門家が務めていた文久元年(1861)11月2日に皇女和宮が宿泊している。

 本陣跡の前に「夫婦道祖神と水速女命」(左)と刻まれた石塔があるが、なんとも珍しい。 水速女命(みずはやめのみこと)は水の女神だが、中山道では初めて目にする神様である。


 水速女命から100mほど歩くと枡形道となり右へ曲がっていく。その角に「上松一里塚跡碑」(右)が設置されているが、実際の一里塚はここより30mほど京都寄りにあったそうだ。

ここから平成21年6月25日

旧中山道は一里塚跡碑の前を右に曲がり、旧国道にぶつかったら左へと曲がっていく。

  旧国道の辺りが上松宿本町であるが、上松駅入り口交差点(広小路)向こうの「旅館田政」(左)は江戸時代から続く旅籠。現在は旅館となっているが、昨晩はここを旅寝の宿とした。

 女将の話では「昭和25年の大火で周辺全部が焼けてしまったが、文久3年(1863)に建てた蔵2棟だけは焼失をまぬがれた」のだそうだ。裏へ回ると見ることができる。

 旅館田政から数分先に歩道橋があるが、「左の道が旧中山道」(右)で、くねくねと曲がった上り坂を寺坂と呼んでいる。

 寺坂を上り、車道に合流したら右に曲がると十字路の先左側にあったのは「斎藤茂吉歌碑」(左)。
 駒ケ嶽見てそめけるを背後にし小さき汽車は峡に入りゆく   茂吉


 その先の上松小学校正門を入った右手には「藤村文学碑」(右)が。
 山はしつかにして性をやしない 水は動いて情をなぐさむ
                       酒落堂之記より    藤村

 

 上松小学校の右端に「上松材木役所跡碑」(左) が建てられている。尾張藩は山村代官から山に関する一切の業務を取り上げ、藩直轄の役所を作ったのであった。

 木曽5木と呼ばれる「檜(ひのき)・椹(さわら)・翌檜(あすなろ)・杜松(ねずこ)・高野槙(こうやまき)」を管理したのだが、「木1本、首一つ」と云われたほど厳しい管理であった。

 その隣に鳥居が建てられているが、神社は小学校校庭のはるか向こう。「諏訪神社」(右)でありながら、御柱を建てないのだとか。

 この先の旧中山道は住宅街の中を通り、坂を下って見帰(みかえり)集落を抜け、国道19号の上を越えていく。

 やがて見えてくる古民家は「たせや」(左)と「越前屋」(右)。

 「たせや」は江戸時代の立場茶屋跡で、現在は民宿を営んでいる。また「越前屋」は十返舎一九の「続膝栗毛」にも登場する蕎麦屋であったが、現在は旅館となっている。

 越前屋は島崎藤村の「夜明け前」にも登場するが、第二部上第三章に次のようなくだりが。
 「偶然にも、半蔵はそんな帰村の途中に、しかも寝覚の床の入り口にある蕎麦屋の奥で、反対の方角からやって来た友人と一緒になることができた」

 ここで真っ直ぐ行ってしまうのはもったいない。たせや と 越前屋 の間の坂道を下って、寝覚の床へ寄り道を。

 坂を下って国道19号を横断し臨川禅寺の境内に入ると、その先は天下の奇勝「寝覚の床」(左)。眼下の木曽川は、真っ青な川面と花崗岩の白、そして両岸の緑の木々とが絶妙なバランスを見せている。

 ところで、境内に「浦島太郎旧縁跡碑」(右)が建てられている。浦島太郎と寝覚の床、妙な取り合わせだが。

 約1200年も前のこと、浦島太郎が竜宮城から帰ってみると親兄弟は無く、家も無い。どこをどうさまよったかこの山中に迷い込み、玉手箱を開けたらいっぺんに三百歳のおじいさんに。びっくりして目を覚ましたので「寝覚」なのだという。

 境内には幾つかの句碑、歌碑があるがその中に自然石に刻まれた「芭蕉句碑」(左)がある。
 ひる顔にひる寝せふもの床の山    芭蕉

 芭蕉句碑の右手の離れた所に「正岡子規」(右)の句碑もあった。
 白雲や青葉わかばの三十里   子規

 話が前後するが、臨川寺宝物館に面白いものが展示されている。それは「浦島太郎の遺物」と記された釣竿と硯である。しかし1200年も前のことなので、なんとも。

 さきほど下った坂道を今度は上っていくのだが、これが結構きつい。やっと、たせやと越前屋の間に戻り右に曲がると、「街道の桂」(左)が彼方に見える。この桂、幹の周囲が4.1mもあるという大木。

 旧中山道はこの先の郵便局前を左に曲がり、上松中学校前を通って、そのまま真っ直ぐ薄暗い林の中に消えていく。

 薄暗い林の中に入ったら、なんと「石畳道」(右)ではないか。僅かな区間であるが、江戸時代がそのまま残っていたのである。

 石畳道を下り、その先の滑川橋を渡ると、文化元年(1804)に行われた滑川橋改修工事のときに刻まれた「磨崖銘文」(左)を見ることができる。刻まれた文字は 「石垣 文化元年申子年八月下旬に出来」

 この先の旧中山道は山間の坦々とした道を下っていき、JR中央西線のガード下を通って国道19号に合流。

 国道に合流して数分、「小野の滝」(右)が街道間際に見える。 傍らの説明板によると、ここを旅した細川幽斉が「これほどのものをこの国の歌枕には、いかに もらしける」 と手放しで褒めたのだとか。

 国道の緩い緩い坂道を10分ほど下り、荻原集落へ続く左側の道へ入ると「一里塚の跡」(左)と刻まれた石碑が建てられているが、ここは江戸から七十三里目の荻原一里塚があった場所。


 荻原集落を抜けると、再び国道19号に合流。しばらく歩くと「松葉菊の群生」(右)が。一瞬疲れが飛びますね。

 次の須原宿はまだまだ先だが、地図を見ると国道から離れ山中の集落を通るようになっている。江戸時代の草道を歩くことができるかも。



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