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第37宿福島宿 ふくしまじゅく
 戦国期に木曽氏の城下町として生まれた福島宿は、江戸時代に
福島関所が設けられ、碓氷関所とともに江戸防衛の重要な拠点と
なった宿場である。
 街道沿いには往時の面影が少ないが、「上の段」と呼ばれている
地区には江戸時代が残っている。

平成21年6月24日   伊勢町小路や寺門前小路など、情緒ある小路が沢山ありました。

 宮ノ越宿を出てかれこれ30分、原野の町並みを過ぎた所に 「庚申塔」(左)が集められている。江戸時代には、街道沿いに点在していたのだろう。やはり道々見かける庚申塔のほうが風情あってよいのだが。

 庚申塔の数分先に明星公園という小さな公園があり、その向こうに「明星岩」(右)が見える。この岩には色々と面白い伝説が。

 木曽高原の濃ケ池が決壊した際に転がってきた岩だと云われ、岩の中には大きな真っ白いカジカが住んでいるとも云われ、朝日に当たると光るとも云われている。

 明星公園から1〜2分の所に「中山道中間地点説明板」(左)が設置されているが、江戸からも京都からも六十七里三十八町と記されている。 ん?一里は三十六町なんだけど。

 この近くに「中山道中間の地碑」があるはずだが、見える範囲には無い。人に聞こうにも人がいない。やっと会えた人に聞くと、「そういやー道の駅にあった様な気がするなー」

 さっそく国道19号の道の駅へ。 ありました、駐車場右手の一段高い所に「中山道東西中間之地碑」(右)が。

 街道に戻り数分歩くと、右側の一段下がったところに細い道があるが、「旧中山道はこの細い道」(左)に入っていく。

 右の細い道に入ったら、その先の十字路を横断して1〜2分、今度は「左に下る草道が旧中山道」(右)である。


 ところで、旧中山道沿いにあってこその「中山道中間之地碑」。どういう経緯で道の駅に設置されたか分からないが、国道沿いに設置してしまうとは国土交通省も横暴だな。

 この先は正沢川に架けられた「鉄の橋」(左)を渡っていくのだが、これが怖い。網目の床から泡立つ川面が見える。それに、なんとなく揺れるんだな〜。

 鉄橋を渡り、道成りに草道を上ると車道に戻り小さな集落を抜けていく。

 ちょっと先の手習い橋を渡ると、その先に見える鳥居は「手習い天神」(右)。木曽義仲を養育した仲原兼遠が、義仲の学問の神として勧請したのだとか。

 5〜6分歩いて国道19号に合流し、中央線の跨線橋を越えた先で再び右に下って10分ほど歩くと、またまた国道に合流。

 国道の緩い坂を5〜6分下った先の左側、落石防止金網の切れ目に「芭蕉句碑」(左)が建てられている。
 思い立つ 木曽や四月の 桜狩り   はせを

 その先200mほどの、やはり左側に「経塚碑」(右)が建てられているが、これは木曽代官山村良忠が元禄14年(1701)に建立したもの。左側の大日如来坐像は元禄15年(1702)の造立だそうだ。


街道はこの先で国道を離れ、右側の道を下っていく。

 木曽大橋の下を通って再び国道に合流すると、その先で国道はトンネルに入っていくが、旧中山道は右に曲がり、「水と緑と史蹟のまち」(左)の看板の下を通っていく。

 数分歩くと巨大な「冠木(かぶき)門」(右)があるが、その先がいよいよ福島宿である。

 宿場に入る前にどうしても通らなければならなかった場所が関所。 冠木門先の左側の細い道を上がると福島関所跡だ。

 坂を上がったところが「番所跡」(左)。この関所は特に入鉄砲と出女を厳しく取り締まっていたのだが、役人の世界はいつの世も同じ。 島崎藤村の夜明け前に次のようなくだりが。

 半蔵らはかなりの時をまった。そのうちに、「髪長、御一人。」 と乗り物のそばで起こる声をきいた。駕籠で来た婦人はいくらかの袖の下を番人の妻に握らせて、型のように通行を許されたのだ。

 向こうに見える建物は「関所資料館」(右)で、番所建物を再現したもの。資料館の前に太田水穂歌碑が建てられている。

 「関所脇の道」(左)がなんとも良い雰囲気。江戸時代もこんな景色だったのかなー。

 この道の先が島崎藤村の「家」のモデルとなった「高瀬家」(右)である。藤村の姉(園)が嫁いだことから、藤村も高瀬家によく出入りしていたようで、高瀬家資料館には藤村からの手紙なども展示されている。

 高瀬家の前の九十九折の石段を降りて街道に戻ったら、木曽川に架かる関所橋を渡ってちょっと寄り道を。

寄り道先は関所橋を渡り、坂上を右に曲がってすぐの、木曽三大名刹の一つ興禅寺

 昇竜の庭や看雲庭(石庭)、須弥山の庭など見所が多い寺院であるが、義仲公お手植え(現在の桜は二代目と案内されている)の時雨桜の下にあったのは「種田山頭火句碑」(左)。

  たまたま 詣でてみれば 花まつり    山頭火


 句碑の脇を通って寺の裏に回ると、「木曽義仲の墓」(右)がある。『義仲死に臨み女を従うは後世の恥なり、汝はこれより木曽に去るべし』と遺髪を巴御前に託したのだが、その遺髪が納められているのだとか。

 街道に戻り、数分歩いて木曽福島支所の交差点を左に曲がった所が「本陣跡」(左)。今は「福島宿 本陣跡」(左)と刻まれた小さな石碑があるのみ。


 木曽福島支所の交差点を右に曲がり、大手橋を渡ると、その先に見える屋敷門は「山村代官屋敷跡」(右)。

 福島関所を預かり、木曽11宿を含む木曽一帯を治めていた山村氏は藤村の「夜明け前」にも名君として登場している。

 代官屋敷の前を100mほど歩き、階段を下りると木曽郷土館があるが、その横に「芭蕉句碑」(左)がひっそりと。

  さざれ蟹 足這いのぼる 清水哉   はせを


 木曽郷土館の横を通って木曽教育会館の前庭に回ると、「藤村文学碑」(右)が見られる。「木曽路はすべて山の中・・・・」という「夜明け前」の冒頭部分がブロンズのレリーフとなって嵌め込まれている。

 街道に戻り数分歩くと、こもかぶりと杉玉が下がった商店があるが、ここは「七笑酒造」(左)。 こもかぶりと杉玉、蔵元の象徴ですね。

 ところで、七笑(ななわらい)とは木曽駒高原に実在した集落の地名。実は、木曽義仲が、ある女性と逢引をしていた場所なのだそうだ。 相手の女性が巴御前か否かは定かでない。

 旧中山道はもう少し先から左に曲がり、横宿を通っていくのだが、七笑酒造の横の味わい深い路地にすっと吸い込まれてしまった。ここは「伊勢町小路」(右)。

 「まさに路地」、そんな狭い道を1〜2分歩くと横宿からの道に合流して坂を上がっていくのだが、その途中の「高札場跡」(左)に高札が復元されている。


 坂を上ると、「上の段(うえのだん)(右)と呼ばれる地区に入っていく。古民家が並んだ風情ある町並みだが、古民家の中が甘味処であったり、レストランであったりと、意外な一面を見せる町並みだ。

 上の段は木曽義昌の居城「上之段城」があった場所。多くの路地が残されており、それぞれに小路名が。

 なまこ壁が印象的な 「寺門前小路」(左) や馬宿小路、 巾の小路、山口小路などそれぞれに趣きある小路があるので、時間が許せばこれらの小路散策も面白そう。

 町並みの終わりから道は左に下っていくが、途中で「江戸時代の井戸」(右)が見られる。解説板によると、江戸時代中頃に造られた井戸で、昭和の中ごろまで町民の飲み水として使われていたのだそうだ。

旧中山道は井戸の前の坂を下って中八沢橋を渡り、旧国道に合流してJR木曽福島駅前へと向かっている。

 坂道を上って駅前を通り過ぎると、ここにも関所資料館前の歌碑と同じ歌が刻まれた「大田水穂歌碑」(左)が。
 山蒼く暮れて夜霧に灯をともす 木曽福島は谷底の町   水穂

 旧中山道の道筋はこの先がちょっと分かりにくい。

 水穂歌碑の先の御嶽神社裏塀にそって狭い道に入り、木曽町役場前を右に曲がっていく。  途中で、都会では滅多に見られなくなった「ホタルブクロ」(右)が疲れを癒してくれました。

 まもなく「塩渕の集落」(左)に入るが、山の中で「塩」とはこれいかに。街道際の説明板によると「シオという地名は川の曲流部に付けられることが多く、曲流部にできた渕のこと」と記されている。
 また「その昔、中山道を馬の背中に塩を載せて運んできたところ、その馬が木曽川の渕に転落して塩をまいてしまったところから塩渕という地名がついた」
とも記されている。地名の由来を解説してくれるとは嬉しいことだ。


 しばらく歩くと「塩渕一里塚跡碑」(右)が建てられているが、江戸より70里、京へ67里と刻まれている。京都まではまだまだ遠い。

 塩渕を通り過ぎると旧国道に合流。100mほど旧国道を歩くと左側に細い上り坂があるが、この道が「旧中山道」(左)である。

 坂を上りきると中平立場跡の小さな集落に入り、その先の国道19号の陸橋下を通って右側の山の中へと入る道が旧中山道であるが、今は途中から消滅状態。

 見えたのは明治43年に開通した「旧中央線トンネル」(右)。途中から曲がっているようで出口が見えない。しかも照明の数が少ない。最初はヒンヤリ気持ち良かったが、そのうち背中がなんとなくゾクゾク。

トンネルを出てしばらくは線路跡を歩き、今度は国道19号に合流。数分歩いたら本橋交差点先で再び左に入り中央線のガードをくぐっていく。

 国道から左に入った旧中山道はのどかな神戸(ごうど)の集落を通り過ぎ、林の中のへと入っていく。

 林の入り口の右側の階段を上がった所は「御嶽山遥拝所」(左)で、寛永2年に再建された鳥居が立ち、小さな祠が祀られている。残念ながら樹が邪魔をして御嶽山を見ることはできない。

 しばらく歩くとまたまた国道19号に合流。合流してすぐに左へ入り、板敷野の集落を過ぎるとJR中央線と平行して「旧中山道草道」(右)が残っている。

 線路際の草道を行くと前方に小高い塚が見えるが、ここは「沓掛一里塚」(左)で、その上の御堂は「沓掛観音」(左)。この観音様には木曽義仲の伝説が残されている。

 木曽の桟まで来た木曽義仲は、人の言葉が分かる愛馬に、「七十三間とべ」と命じたところ正確に七十三間飛んだのだが、実は七十四間あったため人馬ともに川へ転落。命を落とした愛馬のために金の観音を作って弔らったのだとか。

 旧中山道はさらに先へ続いていたのだが、今は消滅しているので、ちょっと戻って坂を下り、国道19号を歩くことに。合流点に「沓掛一里塚碑」(右)がひっそりと座っている。

ここからの国道19号は歩道が無いので側溝の蓋の上を歩くのだが、大型トラックが通り過ぎるときは怖ーっ。



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