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第31宿洗馬宿 せばじゅく
 洗馬宿は、慶長19年(1614)の中山道ルート変更に伴い、塩尻宿、本山宿とともに新しく造られた宿場であった。善光寺道との追分でもあったことから、善光寺詣での人々でも賑わっていた宿場である。

 

平成21年3月19日   願い事は言い成りになんでも叶えてくれるお地蔵様がありました。その名も「言成地蔵」

 平出遺跡を出てから約30分、旧中山道はガソリンスタンドの手前から「左側の砂利道」(左)に入っていく。 4〜5分歩いたら突き当たりを右に曲り、国道を横断して左に曲がる下り坂が旧街道である。


 下り坂の途中に松が1本。「肱懸松」(右)と呼ばれている。
細川幽斎(藤孝)が一句。
 「肱懸けて しばし憩える松風に たもと涼しく通う河風」

今の松は何代目か後のもの。

 肱懸松のちょっと先の「右へ下る旧中山道」(左)を道なりに下ると丁字路にぶつかるが、ここが善光寺道とも呼ばれる北国西往還との分去れ(わかされ)で、右に曲ると善光寺へ、中山道は左に曲っていく。

 分去れには「常夜灯」(右)が建てられているがこれは安政4年(1857)に建立されたもの。行きかう旅人はこの常夜灯を見て善光寺へ、御嶽へ、そして江戸へ京都へと分かれていったのであった。

 ここには分去れ道標も有ったが、今はちょっと先に移設されている。

 分去れで左に曲り50mほど歩くと、肱懸松の前を通っていた道に合流するが、ここに「分去れ道標」(左)が移されている。刻まれている文字は「右中山道  左北国往還 善光寺道」。

 数分歩き案内板に従って右に曲ると、階段下に「邂逅(あうた)の清水」(右)が見える。木曽義仲と今井兼平が落ち合った(邂逅した)場所なのだそうだが、なんともはや千年も前の話なので。

 この清水は今も滾々と清らかな水が湧き出ており、塩尻市の制定した「ふるさとの水20選」に選ばれている。

 洗馬宿は昭和7年(1932)の大火で昔の建物をほとんど焼失してしまい「町並み」(左)に宿場時代の面影は感じられない。しかし国道から外れたことで 「ひなびた旧街道」 そんな趣きは残っている。


 洗馬駅入口を通り過ぎたところに「百瀬本陣跡」(右)があり、説明板が掲げられている。それによると、本陣、脇本陣の庭園は「善光寺名所図会」の中に「中山道に稀な」と紹介されたほどの名園であったそうだ。

 残念ながらJR洗馬駅の構内となってしまった。

 本陣の隣に「荷物貫目改所跡」(左)の説明板がある。「公用荷物の重さを計り運賃を決める役所」であったようだ。他の資料によると「運賃は役所に都合がよい運用がされていた」という。いつの時代も同じだ。

 その先に「志村脇本陣跡」(右)の標柱が建てられている。後ろに明治天皇御駐輦之處碑があるので、明治天皇は御巡幸のおり、本陣ではなくこちらで休憩されたのだろう。
 

 さらに100mほど歩くと、公園のフェンスの中に 「芭蕉句碑」(左) が建てられている。
   つゆはれの わたくし雨や 雲ちぎれ   芭蕉

 その隣が「高札場跡」(右)で、説明板と「中山道碑」「洗馬宿碑」が据えられている。


 洗馬宿は町並み5町50間(約640m)と短い区間。あっという間に通り過ぎてしまった旧宿場町であった。

街道はこの先で左に曲りながら坂を下り、JR中央線のガード下を通っていくのだが、その前にちょっと寄り道を。

 下り坂の途中から左に曲り線路を越えると、その先に「言成(いいなり)地蔵尊堂」(左)が見える。このお地蔵様に「願い事をすれば必ず叶えて貰える」のだそうだ。ありがたい地蔵様だ。

 街道に戻り中央線のガード下を通って再び坂を上ると、途中に「牧野一里塚跡」(右)の標柱が建てられている。ちょっと朽ちかけているのが残念。

 旧中山道はこの先15分ほど歩くと国道19号に合流。さらに15分ほど歩くと次の宿場の本山宿である。

本山宿手前の国道際に「夫婦道祖神」(下)が沢山並んでいたが、ここは石材店の展示場。信州人は夫婦道祖神がよほど好きなんですね。



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