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第30宿塩尻宿 しおじりじゅく
 塩尻宿は中山道が通る以前から、塩の道と言われた三州街道(三河国に至る街道)と千国街道(糸魚川に至る街道)の基点として宿場が形成されており、最盛期には旅籠70軒を数える賑わった宿場であった。

平成21年3月18日    諏訪地方特有の「雀おどり」なる棟飾りが今でも見られます。

 下諏訪宿を出てから岡谷インターチェンジ近くまで、途中あちこち見学しながらかれこれ2時間。石舟観音の先からはいよいよ「塩尻峠に向かう上り坂」(左)である。

 上りは1km程度であるが結構きつい。やっと「塩尻峠頂上」(右)に到着したら、突然、「熊出没注意」の看板。おっとーっ、危ない危ない。

 奥に展望台があるのだが、その入口に明治天皇塩尻峠御野立所と刻まれた石碑が建てられている。お付きの者何十人かで野点なら熊も近づけまい。 

ここまで来たら展望台に上り、峠からの景色を楽しまなければもったいない。

 「塩尻峠からの眺望」(左)は素晴らしいの一語。(拡大写真はこちら) 渓斎英泉が描く「諏訪ノ湖水眺望」もまさにこの地。岡谷市の先に諏訪湖が開け、空気が澄んでいればその先に富士山も望めるという。

 塩尻峠は1055mとそれほど高い山ではないが、中央分水嶺の一つ。この先で降った雨は何日掛けて日本海に流れ込むのだろうか。

 「塩尻峠からの下り道」(右)に入ると、最初こそ急だが、その先は比較的緩やかな下りが続く。
 


 峠から下って数分、「明治天皇塩尻嶺御膳水」(左)と刻まれた背の高い石碑が目に入り、すぐ後ろには今も井戸が残されている。 峠での野点はここから御膳水を運んだのだろうか。


 御膳水碑の向かい側は「茶屋本陣跡」(右)で江戸時代に本陣を勤めた上条家は今もここに住まわれている。

 

 さらに数分歩くと「親子地蔵」(左)が鎮座している。いつ頃の建立か分からないが、なんとも俗っぽい顔でお地蔵様らしく無い。

 地蔵様の隣に「夜通道(よとうみち)」なる伝説が記されている。
 ある美しい娘が岡谷の男と親しくなり、毎夜この道を通ったのだとか。
恋は盲目というから、夜の山道も怖くなかったんだろうなー。

 地蔵様からしばらく歩くと現存の「東山一里塚」(右)がある。解説板によると、中山道は当初の牛首峠経由から元和2年(1616)に塩尻峠経由に変更となったそうだ。今流に言えば中山道のバイパスかな。

旧街道を下ると国道20号に合流するが、すぐに右へ入る道が旧中山道である。

 右に入ると「犬飼の清水跡」(左)に小さな石碑と標柱が立っている。「江戸時代、公卿の犬が病気になったとき、この水を飲ませたら直った」のだそうだ。地元の人は「国道工事の前まではきれいな湧き水があったんだよ」

 一旦国道に合流した旧中山道は再び国道と別れ、緩い坂を下ってゆく。高速道路を越え、柿沢の集落へ入ると「首塚」(右)の案内がある。

 ここは、天文17年(1548)の武田晴信(信玄)と小笠原長時の大合戦で戦死した1000余人が弔らわれている場所。首塚の後方100mほどの畑の中には胴塚も。

ここから平成21年3月19日

首塚から街道に戻り5〜6分、三叉路を左に行く道が旧中山道であるが、寄り道したい場所があるので右側の道を。

 数分歩いた先に、朝日将軍と言われた木曽義仲ゆかりの地がある。ここに、義仲の子孫が元禄15年(1707)に伽藍と「朝日観音堂」(左)を建立。義仲が信仰した駒方観音が収められていた。

 観音堂は後年焼失してしまうが、安政2年(1855)に再建されたのが現在の観音堂である。入母屋造り茅葺屋根の曲線がなんとも美しい。

 その先数分で旧中山道に合流。ここには是より西中山道 塩尻宿」(右)と刻まれた石碑が建てられている。

 塩尻宿は明治16年(1883)の大火で宿場のほとんどを焼失。宿場時代の面影が少ないが、実に丁寧に石碑が建てられているので、
これを頼りに江戸時代を想像することができる。

 塩尻宿に入って数分歩いた右側に「十王堂跡碑」があるが、その横の庚申塔などの「石塔群」(左)の中に、なんとも可愛らしい「夫婦道祖神」(左)が。

 その先の五千石街道は諏訪藩の飛び地五千石領地への街道があった場所。

 五千石街道から数分先の古民家2棟は国指定重要文化財の「小野家住宅」(右)である。屋号を「いちょう屋」と称した旅籠で、文政12年(1829)から天保7年(1836)に建てられている。

 小野家住宅の斜め先辺りが「塩尻宿本陣跡」(左)で、明治天皇鹽尻行在所(あんざいしょ)御膳水碑なども。


 その先の小公園が「脇本陣跡」(右)で、ここには脇本陣跡碑の他に中山道碑や塩尻宿碑なども据えられている。

 本陣の建坪は367坪、脇本陣は270坪であったというからかなりの大きさ。これらが火災で全て焼失とはもったいないことである。

 脇本陣のすぐ先が明治16年(1883)創業の造り酒屋・笑亀酒造。明治時代後期の建物が登録有形文化財に指定されたそうだが、人目を引くのは街道際に下げられた「酒林(さかばやし)(左)。

 塩尻宿は慶長10年以降は天領となり塩尻陣屋が置かれていた。その陣屋跡碑が笑亀酒造の入口に設置されている。

 旧中山道は笑亀酒造の先200mほどで国道153号と別れ、右に折れていくが、ここは宿場特有の「枡形道」(右)で、角のところにある石碑に刻まれた文字はは塩尻宿中山道鉤の手跡」
 

 鉤の手を右に曲り1〜2分歩くと「阿礼神社」(左)が鎮座している。社殿は将軍綱吉時代の寛保3年(1743)に再建したものだが、古くは坂上田村麻呂や木曽義仲も参拝したという長い歴史を持つ神社である。


 阿礼神社から5〜6分の所にある重厚な建物は国指定重要文化財の「堀内家住宅」(右)で18世紀後半頃建てられ、19世紀初に現在地に移築したのだとか。

 下諏訪宿以来気になっていたのだが、堀内家住宅の屋根上にもある。何だろうか。通りかかった方に聞くと「雀おどりだ。一種の飾りだな」と言う。
調べたところ諏訪地方特有の切妻屋根に設けた棟飾りで、当初は屋根から落ちる雪除けだったものがデザインとして進化したものだそうだ。

       街道沿いで撮影した「雀おどり」です。


街道はこの先で国道に合流し田川を越え下大門の4差路に差し掛かるが、中山道は一番左の道を入っていく。

 

 左の道に入ってすぐの所に「大門神社」(左)があるのだが、ごくごく普通の神社、と思ったら考古学者には有名な神社なのだとか。

 昭和35年(1960)、境内から高さ64センチの完成品銅鐸が出土。これまで長野県は銅鐸文化の圏外と考えられていたのだが、これが覆されたということで注目されたのである。

 大門神社の直ぐ先の祠は「耳塚」(右)と呼ばれている。「桔梗ケ原」の戦い(南北朝時代)の戦死者を弔ったという云い伝えがあるが、耳の形の皿や椀を奉納すると耳の聞こえが良くなる、と評判になったそうだ。

旧中山道はこの先のJR中央線ガード下を通り、昭和電工の長い長い塀の前をてくてくと。

 まもなく街道際に現存の「平出一里塚」(左)が見えてくる。ここは左右とも現存しているという貴重な一里塚。街道からは左側だけしか見えないが、右側は民家の裏に現存している。

 一里塚の左手、畑の向こうに復元された竪穴住居が何棟も見える。ここは縄文時代から平安時代にかけての大集落跡で、今も整備が続けられている「平出遺跡」(右)。

 旧中山道は再びJR中央線の踏み切りを越えて国道19号に合流。しばらく国道を歩くと、次は洗馬宿である。

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