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第29宿下諏訪宿 しもすわじゅく
 下諏訪宿は、諏訪大社下社の門前町として発展したが、甲州道中との追分であったことから旅人、商人などの宿泊も多く大変賑わった宿場であった。
また中山道唯一の温泉のある宿場でもある。
木落とし(注連掛の下諏訪商工会議所掲示板より抜粋)

平成21年3月18日   「なんだこれは」と思わず声が出る石仏がありました。

 和田峠を下っても下諏訪宿はまだまだ遠い。国道142号に合流して下ってきた旧中山道は「町屋敷バス停」(左)の先で左へ曲り、すぐに右へ曲って町屋敷集落を通っていく。

 数分歩くと丸太が4本立っている。 う、御柱? さすが諏訪大社のお膝元、「御柱の立つ道祖神」(右)が出現しました。


 街道はすぐ先で一旦右の道を下り、その先で坂を上っていく。

 上り坂の突き当たりに「木落し坂碑」(左)と解説板が建てられているが、ここは七年目毎の申・寅年に行われる諏訪大社下社御柱祭りの中の木落しが行われる場所。

 碑の前にある「木落し坂」(右)は傾斜度45度、この坂に下社春宮、秋宮の8本の御柱を落とすのだが、目の前で見る木落し坂は冒頭の写真とは大違い。まさに絶壁である。

 若者の男意気が試される木落しだが、
「男みるなら七年一度 諏訪の木落し坂落し」と唄われているそうだ。

 木落し坂横の遊歩道を下ると、国道に合流する手前に石塔群があり、反対側に「芭蕉句碑」(左)が建てられている。
 ゆき散るや 穂屋のすすきの 刈残し   芭蕉

 旧中山道は一旦国道に合流するが、落合バス停先から再び左の道に入っていく。

 山裾の静かな道を10分ほど歩くと、またまた国道に合流するが、合流点の左側、坂の上が「注連(しめ)掛け」(右)と呼ばれる場所である。
御柱に注連縄を掛けて清め、休ませる場所なのだそうだ。

 


 国道に出てしばらく歩くと馬頭観音などが見られるが、その先のバス停横の斜面に「山の神」(左)が祀られている。


 旧中山道は山の神の先で国道と別れ右に下っていくのだが、100mほど歩くとここにも「御柱のある道祖神」(右)が。 この先にも大小の違いはあるが、御柱に守られた道祖神が各所に。

 再び国道に戻って数分、中山道は再度右に下っていくのだが、ここでは右へ下らず左の細い道を上って水月公園と慈雲寺に寄り道を。
 公園には地元俳人の句碑が多数据えられているが、階段を上りきった広場に「芭蕉・曽良」「蕪村」「正岡子規」の句碑がある。
上ってきた階段を戻り、さらに墓地に入る階段を下ると、ここにも「曽良の句碑」が据えられている。


しばらくは
 花の上なる 月夜かな  芭蕉


夜もすがら
 秋風きくや 裏の山   曽良
不二一つ
 埋みのこして 若葉かな  蕪村

 (うずみ)
信濃路や
宿借る家の 蚕棚   正岡子規
夜寒とて
人はねぢむく 月見哉   曽良

 墓地の中の細い道を下って慈雲寺の参道に入ると、安永8年(1768)建立の「楼門」(左)があり、その向こうには見事な枝ぶりの「天桂松」(右)が見える。


 天桂松を眺めていたら足元に擦り寄ってきた猫がいるではないか。  この猫がなんとも可愛いんだ。しばらく猫と戯れていたよ。

 さきほどの旧中山道まで戻り右に下ってゆくと、見事なヘアピンカーブが。

 カーブの所に「道標」(左)があるのだが、「左 諏方宮」と刻まれている。「諏訪」の字は古くは「諏方」と書いたそうだが、そこまでこだわらなくてもなー。

 旧中山道はカーブせず真っ直ぐ行くのだが、ここでもちょっと寄り道するためにヘアピンカーブをさらに下ることに。


 寄り道の第一の目的は「諏訪大社下社春宮」(右)への参拝。ところが残念! 幣拝殿が修復工事中ですっぽりとシートに覆われている。

 気を取り直して神楽殿の手前を左に曲り次の目的地へ。

 浮島神社横を通って浮島橋を渡ろうとしたところ、「小林一茶句碑」(左)があるではないか。
  一番に 乙鳥(つばめ)のくぐる ちのわ哉   一茶

 浮島橋を渡ると、「なんだこれは」と思わず声が出る石仏が鎮座している。岡本太郎が「こんなに面白いものは見たことない」と絶賛したという「万治の石仏」(右)は万治3年(1660)に彫られたもの。

 もともとは春宮の大鳥居を造ろうとノミを入れたところ、傷口から血が流れ出てきたため、恐れた石工が阿弥陀如来を彫り祭ったのだとか。

 春宮の幣拝殿には参拝できなかったが、まだ秋宮があるではないか。

 さきほどのヘアピンカーブまで戻り数分歩くと、「龍の口」(左)から滾々と清水が流れ出ている。この龍頭水口は江戸時代中頃の作と云われているが、多くの旅人の喉を潤してきたことだろう。

 階段を上った先は慈雲寺であるが、その途中に「矢除石」(右)なるものがある。この石には武田信玄伝説が残されている。

 武田信玄が慈雲寺の天桂和尚に戦勝の教えを請いに行くと、和尚は石の上に乗り「私を矢で射てみよ」と言ったという。信玄が矢を射ると、矢はすべて石に撥ね返されてしまったのだとか。信玄は念力のこもった矢除け札を受け戦場に向かったのだが、勝ち戦となったかどうかは語り継がれていないようだ。

 龍の口の数分先、民家の壁際に「一里塚跡碑」(左)がひっそりと立っている。ここは五十五里塚と言われた下諏訪一里塚があった場所。江戸から約220km。


 ところで、春宮から歩いてくる途中、何箇所かで樋から水が流れ出ている場所があったが、なんと、水ではなく温泉だったのである。まさに「源泉掛け流し」(右)。 さすが!温泉の宿場 下諏訪。

源泉掛け流しの先から上り坂であるが、坂を上ったところの十字路を左に曲がったすぐの来迎寺に面白い伝説がある。

 山門を入った右手に「銕焼(かなやき)地蔵尊堂」(左)があるが、堂の中に安置されている
お地蔵様と”かね”という娘の伝説である。

 今から千年余り前、湯屋別当に奉公していた”かね”という娘は、いつも自分の弁当の一部をお地蔵様にお供えする
心優しい娘だった。
 あるとき、別当の妻から焼け火箸で額をたたかれてしまった”かね”は痛さに耐えかね、お地蔵様にお祈りしたのです。
ふと仰ぎ見るとお地蔵様の額から血が流れており、自分の額の傷は直って、前よりも美しい顔になっていました。

 この地を訪れた大江雅致がこの話を聞き、”かね”を都に伴い養女としたのであった。
”かね”は書道・歌道などを学び、宮中に入って和泉守橘道貞と結婚。和泉式部となったのであった。

 

 甲州街道上諏訪宿の温泉寺に「和泉式部の墓」があったが、来迎寺には「和泉式部供養塔」(左)が。

 そのそばには「和泉式部歌碑」(右)も。

    あらさら無 この世のほか能 於も悲てに
                似ま飛とたひの 阿うこともか那

 ( あらざらむ この世のほかの 思い出に 今ひとたびの 逢うこともかな )

 うーん、”かね” を和泉式部 にしてしまったとは。 

十字路に戻り左に曲ると本陣跡にいかれるが、真っ直ぐ50mほど歩くと諏訪地方唯一の古墳である青塚古墳(前方後円墳)が見られる。

 十字路から1〜2分の所に「岩波家本陣跡」(左)があるのでちょっと見学を。玄関に、宿泊した大名の関札が並んでいるが、中に「加賀宰相旅宿」と記された関札があるので前田藩もここで一泊したのだろう。

 明治天皇の玉座となった「奥座敷」(右)からの眺めが素晴らしい。火鉢に当たりながら、中山道随一の名園と称されている庭を眺めて一献傾けたら最高に幸せな気分になれそう。

 残念ながら皇女和宮が宿泊した「上段の間」はこちらでは見ることができない。


 本陣跡を出ると、その先は「中山道と甲州道中の合流点」(左)である。左の写真は甲州道中側から中山道を眺めたものであるが、中山道は合流点で直角に右に曲り京都に向かっている。


 合流点の左側は木曽路名所図絵に描かれている「綿の湯」があった場所だが、今は「合流地前広場」(右)となってしまった。木曽路名所図絵のレリーフや石碑が据えられており、ちょっとだけ往時がしのばれる。

合流地前広場の石碑やレリーフ
 以前は広場の奥にあったが、
今は街道際に移されている。
 文化2年(1805)に描かれた
「綿の湯」前の情景。
松尾芭蕉も入湯したという
綿の湯があった場所の石碑。
ここには問屋場もあり、
大変賑わっていた。

 綿の湯跡横の道を入ると、島崎藤村や芥川龍之介など多くの文人が宿泊した 聴泉閣かめや という旅館であるが、ここで皇女和宮が宿泊した「本陣上段の間」(左)を見ることができる。

 岩波家の分家がこちらの建物を譲り受け、大切に保存してきたのだそうだ。

 江戸時代には下々には畏れ多かった 「上段の間」(右)であるが、 「ゆっくり見ていって」という女将さんの言葉に甘え、殿様気分を味わった上段の間であった。

 旧中山道は右に曲っていくのだが、ここまで来て 「下社秋宮」 を見ずに先へ行くことはできない。

 真っ直ぐ進むと「新鶴本店」(左)と看板が出ている和菓子店がある。明治6年(1873)創業の羊羹店であるが、「塩羊羹」が絶品。午前中には売り切れてしまうそうだ。

 その先に「番屋跡碑」(右)が建てられている。ここまでが宿内で、ここを右に曲ると千尋池の前を通って下社秋宮の門前となる。

 千尋池畔に「小林一茶句碑」(左)が建てられているので秋宮へ行く前にちょっと寄り道を。

  国中は 残らず諏訪の 尾花かな   一茶

 御射山祭りの日は諏訪神社のほとんどが尾花を捧げて諏訪祭りを行うのだそうだ。

 昨年の3月に日本橋を出発、あちらこちらを見ながらやっと「諏訪大社」(右)に到着。

 諏訪大社は諏訪湖周辺に4箇所の境内地を持つ神社で、ここは「下社秋宮」

 下社は御神木を御神体としているので本殿が無い。「幣拝殿」(左)に向かってこの先の旅の安全をたっぷりと祈願しました。

 幣拝殿の両横には「一の御柱」「二の御柱」(左)がしっかりと立てられており、三、四の御柱は幣拝殿の後ろに立てられている。

 諏訪大社に参拝したので再び中山道の旅だ。 

合流点まで戻り、左に曲って(春宮方向から来た場合は右に曲る)再び中山道の旅を再開である。

 曲る角の左側の建物は元禄3年(1690)創業というから300年の歴史があり、木曽路名所図絵にも描かれている「旅籠桔梗屋」(左)。現在も旅館として営業が続けられている。

 右側の「御宿まるや」は「旧脇本陣」(右)。建物は最近建てられたものであるが、実は大変なこだわりの建物で、当時の図面や古文書を元に、材料までこだわって忠実に再現した建物だそうです。

 食事も江戸時代を忠実に再現して・・・・・・てなことは無いな。

 桔梗屋前から50mほど先に「歴史民族資料館」(左)がある。親切な館長さんが下諏訪宿の歴史を詳しく解説してくれるので、時間が許すならぜひ立ち寄りたい場所だ。

 さらに100mほど先に「高札場」(右)が復元されている。説明板によると、当初は中山道と甲州街道の合流点にあったのだが人通りが激しく、高札場前が混雑したので現在地に移転した、とある。

 現在の合流点は閑散としており、江戸時代の混雑を想像することが、とてもできない。

 高札場跡の先で国道142号に合流し坂を下って5〜6分。国道は右に曲って行くが、旧中山道は左側の真っ直ぐな道である。
 旧道に入って数分、一段高くなった広場に「魁塚」(左)がある。

 慶応4年正月、江戸城総攻撃の先鋒として出発した赤報隊であったが維新政府によって斬首されたのがこの地。後に同志によって魁塚が築かれたのであった。

 こんな可愛らしい「御柱に囲まれた道祖神」(右)もありました。

 旧中山道は国道に平行して進んでいくが7〜8分歩くと丁字路となりその先は旧中山道消滅。 と思ったら家と家の間に幅1mほどの「旧中山道」(左)が残っていました。

 せま〜い狭い中山道を進むと砥川の堤防上に出る。

 ちょっと上流の富士見橋を渡ってその先を左に曲ると、先ほどよりはやや広い「旧中山道」(右)が50〜60mほど続く。

 ここを抜けると旧中山道はごくごく普通の道路となる。

 その先のごくごく普通の道を15分ほど歩くと「旧渡辺家住宅」(左)の表示が有るので左に曲ると、路地の奥に藁葺きの家が見える。

 この家は高島藩に仕えた藩士の家で、18世紀中ごろに建てられたのだとか。ここに住んでいた江戸時代の武士とはどんな人物だったのだろうか。興味があるねー。

 旧街道をさらに進み、平福寺の前を通って交差点を渡ると「右中仙道 左いなみち」と刻まれた寛政3年(1791)「道標」(右)がある。


 道標の先はフェンスやブロック塀ではなく「生垣が続く中山道」(左)。生垣は手入れが大変だが、おもむきがあっていいね〜。


 旧中山道は、しばらく歩くと国道20号を斜めに横断していくが、国道を渡った先の街道際に 「一里塚」と刻まれた 「東堀一里塚跡碑」(右)がぽつんと立っている。ここは江戸から56里目の一里塚があった場所。

一里塚跡碑の先は道祖神を写真に撮ったり、今井観音を眺めたりしながらかれこれ30分。なにやら黒光りする石碑が。

 石碑には「今井番所跡」(左)と刻まれている。ここは幕府ではなく、高島藩(諏訪藩)が設けた口留番所であるが、ここを通過するには高島藩が発行する通行手形が必要であったそうだ。


 今井番所跡の斜め先が多数の国登録有形文化財を所有する「今井家小休本陣跡」(右)。塩尻峠を越えてきた多くの大名や皇女和宮そして明治天皇もここで小休みしている。

 

 小休本陣の先に比較的新しい中山道碑があったが、その先から岡谷インターチェンジを回り込む辺りまではかなり急な上り坂。

 さらにその先の急坂を上っていくと「石舟観音」(左)の表示が。だがこの観音様はなんと階段のずっと上。うーん、まいった。

 ところで、山の中で何故石舟?観音様が舟形の台石に乗っているからなのだとか。足腰の弱い人に霊験があるそうだ。そういえば草鞋が。

 その先の「塩尻峠に向かう道」(右)もずーっとずっと上り坂。

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