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和田峠わだとうげ
 標高1531mの和田峠は碓氷峠以上の難所。特に冬季は深い積雪のため峠越えが出来なくなることもしばしばで、貝原益軒の紀行文に『三月末(今の五月上旬)まで峰に雪おほし。路にもなほ残れり』とある。
 また前後の宿場間が5里18町
(約22km) と長いため、途中に避難所や茶屋が何ヶ所か設けられていた。

平成21年6月4日   ついに中山道最大の難所 『和田峠』 を越えました。

 旧中山道は国道142号の「男女倉(おめくら)口」(左)から右に曲がり旧国道へと入っていくのだが、ここの標高がすでに1100m、和田峠の頂上が1531mなのでその標高差は430mほど。


 旧国道方向に曲がると「和田峠登山口」(右)が見える。若葉に覆われた薄暗い道に入ると、すぐに右に曲がって坂を上っていくのだが、江戸と京都を行き来する旅人が歩いたのも正にこの坂道である。

 登りはじめて数分、前方にかなり荒れた建物が見えるが、かつて休み茶屋があった場所。

 その隣に多数の石仏が鎮座しているが、この石仏群は「三十三体観音」(左)と呼ばれ、熊野権現社の前にあったものを発掘しここへ安置したのだとか。

 その先の旧中山道は比較的広い「草道」(右)。緩やかな上り坂を鶯の鳴き声を聴きながら快適に歩くことができる。やがて林の中に入るのだが、今度は薄暗くかなりきつい上り坂。

しばらく林の中を歩いていると旧国道に合流する。

 合流先に茅葺屋根の建物が見えるが、ここは「接待茶屋跡」(左)。 江戸呉服町の豪商が寄付した資金をもとに設置された人馬施行所で、旅人には粥を、牛馬には煮麦を施したのだそうだ。

 茶屋跡の隣に「殉職警察官の碑」(右)が建てられている。解説板によると「強盗犯人を護送途中、犯人と格闘となり殉職した」のだそうだ。時は明治22年(1889)、彼はまだ21歳という若さであった。

 もう少し登ったところに殉職の地碑が建てられている。

 旧中山道は、旧国道を100mほど歩き左の草道に入っていくのだが、入り口に「常夜灯」(左)が設置されている。

 この常夜灯は昭和55年(1980)に再建されたもので、元々ここにあった常夜灯は嘉永4年(1851)の山津波で流されてしまったのだとか。

 しばらく歩くと石畳の道となるのだが、ほとんどが雑草に隠れているのが残念。 茶屋跡から40分ほど歩くと 「広原一里塚」(右) に到着。ここは江戸から52番目となるが、左側が現存。

一里塚から4〜5分歩くとキャンプ場が出現。江戸時代の街道脇にキャンプ場とは、ちょっと違和感があるなー。

 その先から「現代の石畳道」(左)となり再び旧国道に合流する。 合流した先に「東餅屋のドライブイン」(右)が1軒。

 ここのお勧めは「力餅」(右)。ここだけでしか食べられないというオリジナル品。添えられた野沢菜漬との相性が抜群。

店の主人の話では「あと10分か15分歩けば頂上だよ」という。 ちょっとまて、『中山道最大の難所』のはずだが。


 江戸時代の旅人は和田宿から1時間半かけて男女倉(おめくら)口まで標高差300mを登り、
さらにそこから標高差430m余りを登るわけであるから、これはきつい。

 私の場合は、今朝、町内循環バスで男女倉口まで入り、そこから登りはじめたため楽をしてしまった。
ちなみに、碓氷峠は京都側からが楽だが、和田峠は江戸側からだと厳しい登りが少ないので楽である。 

 ゆっくり休憩し、力餅も食べたので頂上めざして出発。
木曽海道六十九次の内 和田 (雪の和田峠)

 ドライブインの前が「東餅屋茶屋跡」(左)で、当時は5軒の茶屋が名物の餅を売っていたそうだ。幕末には茶屋本陣も置かれたほど賑わったのだが、国道と鉄道の開通により様変わりした峠道である。

 旧国道を少し上ると再び青色の中山道道標が道案内をしてくれる。

 中山道草道に入り数分、なんと「中山道がトンネル」(右)になっている。トンネルの上は美ケ原高原に至るビーナスラインであるが、旧中山道を歩く旅人のためにトンネルを作ってくれたようだ。

 トンネルを出た先で、今度は3度も「ビーナスラインを横切っていく」。車道はジグザグに山肌を上っていくのだが、旧中山道は直線的に登っていくためビーナスラインを何度も横切ることに。

 この辺りまで登ると鶯だけではなくカッコーや、 特許許可局 と聴こえるホトトギスの鳴き声も。 野鳥を独り占めである。

 ほどなく前方が開けて「和田峠頂上」(右)が見える。男女倉口を出発したのが8時10分、 写真を撮ったり東餅屋で休憩したりして頂上到着が10時30分。 2時間20分の登山であった。

 「和田峠頂上」(左)には中山道碑説明板が設置されているが、すぐに下り道となる。まさに上り下りの頂上。
 
 この日は穏やかな峠であったが、厳冬期には1m以上の積雪。江戸時代はおろか、今でも厳しい峠越えであろう。


 広場の左上に御嶽山大権現など何本かの石塔が建てられているが、「ここからの眺望」(右)が素晴らしい。はるか彼方に、これから下っていく諏訪の町並みも望める。

 「下り始めの坂道」(左)は緩やかな草道で快適に歩くことができる。 と思ったのも束の間、すぐに階段どころか梯子を降りるような急坂が随所に。

 最初の急坂を過ぎると今度は「ガレ場」(右)。その先もジグザグに下っていくのだが、狭い道で急坂の連続。

 この道を数万とも云われる皇女和宮の一行が通ったわけだが、梯子のような急坂も和宮は駕籠に乗ったままだったのだろうか。それは無理な事だと思うがなー。
 

 しばらく下ると名主勝五郎によって安政2年(1855)に計画・建設された「石小屋跡」(左)の一部が見られる。

 下諏訪側の峠近くは急坂で風雪のときは旅人も馬も難渋、時には雪割り人足も出動したというその場所に、避難所と荷置き場を兼ねて造られた石小屋は長さ55mもの大きさであったそうだ。

 30分ほど下ると「旧中山道は旧国道を横切って」(右)ガードレールの切れ目から、さらに下っていく。

 熊笹が茂る道を下っていくと再び旧国道を横切り、さらに数分下ると牛頭天王碑と道祖神が見られるが、その先の広場は「西餅屋茶屋跡」(左)。

 かつてここには小口家茶屋本陣と3軒の茶屋があったそうだ。「小さな石碑」(左)が建てられている。

 茶屋本陣の先で今度は国道142号を横断。ガードレールの隙間から階段を下り200mほど歩くと「西餅屋一里塚跡碑」(右)があるが、ここは江戸から53里目となる。

 一里塚跡碑の先からはかなり厳しい「ガレ場の連続」(左)。崖の中腹に造られた道は幅30センチに満たない場所もある。左側は深い谷、足を踏み外したら谷底に一直線。

 ガイドブックなどには「危険なので国道を迂回」と記されているが、踏み跡がしっかりしているので慎重に歩けば危険というほどではない。

 ほどなく「国道142号」(右)に合流。下諏訪宿に向かって国道を下っていくのだが、焼けたアスファルトが暑い。いや、熱い。

 歩道の無い国道をトラックを避けながら下っていき、案内に従って左の脇道に入ると「水戸浪士の墓」(左)に行くことができる。

 元治元年(1864)、和田峠を越えてきた水戸浪士千余名(天狗党)と高島藩・松本藩連合軍がこの地で激戦。勝利した水戸浪士軍は10余名の戦死者をこの地に埋めて京都めざし出発してしまったのだった。

 しかし負けた高島藩は、埋められた浪士のために塚を造り、名前の分かった6柱の名を刻んだ石碑を建てて祀ったのであった。そこを別名「浪人塚」(右)と呼んでいる。

 水戸浪士の墓から先は砥川を右に見ながら10分ほど下っていくと国道142号に合流。さらに数分歩くと皇女和宮も御小休みした「樋橋(とよはし)茶屋本陣跡」(左)があり石碑が建てられている。

 この先は下諏訪宿に向かって国道142号を下っていくのだが、途中の樋橋一里塚跡は、ついに見つけることができなかった。

 歩き疲れたころ「町屋敷集落」(右)が見えてくる。集落の先には諏訪大社の御柱を引き落とす 木落とし坂 が在るはず。下諏訪宿が近い。



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