中山道の表紙に戻る


第28宿和田宿 わだじゅく
 和田宿は中山道最大の難所である和田峠(1531m)をひかえ、しかも次の宿場である下諏訪宿まで5里18町と遠かったことから、宿泊客が大変多かった。文久元年(1861)の大火で宿場のほとんどを焼失してしまったが、皇女和宮の降嫁に備え突貫工事で宿場を再建した経緯がある。

平成21年6月3日   茅葺き屋根、宮造り風の屋根、とんがり屋根 など 大変ユニークなバス停が見られます。

長久保宿を出てかれこれ40分、国道142号の青原交差点を渡ると目の前はかなり広い芝生公園。ここでも青色の「中山道道標」(左)が道案内をしてくれる。

 公園に沿って左に曲がると中山道碑や中山道の解説板が設置されているが、一角に多数の「石塔」(右)が並べられている。元々ここにあった、というのではなくここに集めたようだ。

 1本の石塔に小さな七福人が並んでいるのが滑稽だが、地元の人が並べたのだろう。

 公園の先からはるか彼方まで続く「旧中山道」(左)は車が時々通るだけ。この道は旧国道であるがバイパスができたおかげで今はのどかな道だ。


 しばらく歩くと茅葺き屋根の小さな家が見える。近づくと、なんと「バスの停留所」(右)であった。和田宿を通る中山道が国指定遺跡となったことから、それに相応しいバス停を、と造ったのだとか。

 さらにしばらく歩くと、その名も「みみず道祖神」(左)。傍らの説明板によると、植物がよく育つ土作りに貢献するということで、蚯蚓地区に住む人々の希望で祭られたのだそうだ。

 説明板にはもう一言、この蚯蚓地区では「みみずの干物を作り、煎じて解熱剤にしていた」のだそうだ。 ゲッ、解熱剤に?

 さらにその先で「三千僧接待碑」(右)なる石碑が見られる。諸国遍歴の一千僧接待の石碑を建て見事結願。次は三千僧を発願、ここでちょっと手抜きを。一千僧の上に二を刻んでごまかしてしまったのだとか。

 さらに15分ほど歩いた左側、若宮八幡神社社殿裏にある「本殿覆屋」(左)がなんと茅葺。この中に享保8年(1721)に建立されたという本殿が収められている。「茅葺」というのがいいねー。

 茅葺建物の横に、天文23年(1555)の矢ケ崎合戦で武田信玄に敗れ自害した和田城主大井信定父子の首級が埋葬されおり、元禄6年(1693)に建立されたという墓碑が建てられている。

 若宮八幡宮から数分歩くと中山道一里塚跡と刻まれた「芹沢一里塚跡碑」(右)が建てられているが、ここは江戸から49里目(約196km)

茅葺屋根のバス停があったが、今度はトンガリ帽子のバス停が出現。楽しいバス停が多いので和田宿のバス停を一挙公開。
ぜ〜んぶ和田宿で見たバスの停留所です。

 一里塚跡碑を見てから約30分、緩い坂道を上ったところに、自然石に「是より和田宿」と刻んだ「和田宿碑」(左)が据えられている。青原の交差点からだとかれこれ1時間、やっと和田宿に入ってきた。


 和田宿碑の少し先に小学校、中学校が並んでいるが「和田中学校」(右)の建物が懐かしい。正面玄関を中心に左右に校舎、前庭は運動場。正面玄関のすぐ横が校長室と教員室だったかなー。

 和田中学校の少し先に滾々と清水が湧き出ている「水飲み場」(左)がある。苔むした隙間に樋が差し込んである風景がなんともいいんだなー。思わず一枚。

 水飲み場の先、階段を上がると広場の向こうに見える茅葺屋根の建物は「八幡社拝殿」(右)。本殿は18世紀前半の建築と推定されるそうだが、格子戸から垣間見ることができる。

 茅葺、しかも入母屋造りの屋根が今では珍しい。

 八幡社を出て100mほど歩くと、いよいよ和田宿の中心街。

 最初に目に入る建物は 「旧旅籠かわち屋」(左)。 文久元年(1861)3月の大火で焼失したが、その年の11月には再建。和宮一行を無事に迎え入れている。

 この先から古民家が続くが、かわち屋の斜め対面、一段高くなったところの出梁造りの建物は「問屋跡」(右)である。

 問屋跡の隣は「旧旅籠大黒屋」(左)。安政年間以降は昭和初期まで穀物商を営んでいたそうだが、最近、修復が完了。現在は戸閉めとなっている。

 大黒屋の斜め対面、出梁造りの建物は「名主羽田家跡」(右)であるが、もちろんこの建物も文久元年の大火以降に建てられたもの。現在はかあちゃん家という農家レストラン。

 羽田家の反対側が皇女和宮が宿泊した「和田宿本陣」(左)である。

 文久元年の大火で焼失してしまったが、和宮宿泊のために突貫工事で再建させ、11月に無事和宮を迎え入れている。しかし本陣再建のために莫大な借金が発生してしまったようだ。

 女性管理人いわく、「そうなのよ、借金を返すために『上段の間』がある建物を売ってしまったの。和宮さんがここに里帰り?しても泊まる部屋が無いのよ」  なかなか面白いことを言ってくれますなー。

 本陣前の交差点を右に曲がると、和田城主大井信定父子の菩提を弔うために建立されたと云われている信定寺に行くことができる。
背後の山は和田城址であるので時間に余裕があれば寄り道もよさそう。

 交差点を渡って1〜2分、右側の奥まったところは「翠川(みどりかわ)家脇本陣跡」(左)。一般公開されていないが、上段の間、二の間、脇上段など当時の部屋がそのまま残る御殿が現存している。

 翠川家の対面は中山道を旅する旅人に大人気の「本亭旅館」(右)。旧庄屋の建物を改造したということだが、宿泊可能人数が少ないのが残念。

 実は、私も本亭旅館に泊まりたかったのだが、2度も残念な結果となってしまい、泊まった宿は和田宿手前の「民宿みや」であった。

 本亭旅館先の見事な卯建と白壁土蔵の商店は「よろずや」(右)と看板を掲げた酒店。かつてはなんでも売っていたのだろう。
「よろずや」 スーパーやコンビニより響きがいいねー。


 宿場街もそろそろ終わりというあたりにバス停があるがここは「高札場跡」(右)。幕府の法度が掲げられた高札場の大きさは正面幅2間(約3.6m)の屋根付きであったそうだ。

 

 やがて旧中山道は国道142号に合流するが、合流点の向こう側に「鍛冶足一里塚跡碑」「諏訪街道道標」(左)が据えられている。

旧中山道はこの先50〜60mほど国道を歩いた後、左の細い道に入り、しばらく旧道を歩くと再び国道に合流。ここからが怖い。大型トラックが道一杯に通り過ぎていくが歩道がないのだ。

 かれこれ1時間ほど国道を歩くと「唐沢集落」へ入る道と反対側に山へ入る細い道があるが、この道が「古中山道入り口」(右)。

古中山道と記した理由は、天保年間以前にこの付近の路線変更が行われ、山中に取り残された中山道となってしまったのであった。

 古中山道に入ると、踏み跡がしっかりしている。「結構多くの街道マンが歩いているな」そんな感じの旧道である。

 しばらく林の中を歩くと、左右とも昔のまま「唐沢一里塚」(左)を見ることができる。街道から外れたことが幸いしたのだが、「時を越えてきた江戸時代」、まさにタイムスリップしてきた一里塚である。

 一里塚の先を数十m歩くと再び国道に合流し15分ほど歩くと国道142号と旧国道が分かれる「男女倉(おめくら)口」(右)。いよいよこの先は和田峠への登山口である。



前の宿場長久保宿    和田峠へ     表紙に戻る