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第25宿望月宿 もちづきじゅく
 奈良時代末に御牧(御料牧場)が設けられ、後に「望月の駒」として多くの歌人に歌われたことで全国にその名を知られた望月であるが、中山道が制定されると、宿場町としても多くの旅人で賑わっていた。
 
 街道沿いには江戸時代の脇本陣や旅籠などの建物が残っており、趣のある町並みが楽しめる。

平成21年2月5日  「山間のひなびた宿場町」を想像していたが、

 「ひなびた宿場町」を想像していた望月宿であるが、瓜生坂を下る途中、木の間越しに見える望月の町は見渡す限りに家並みが続き、
想像を覆す大きな町であった。

 うねうねと曲った瓜生坂を下ってくると、藪の中を下ってきた旧中山道と合流する。その少し先で表示に従って今度は右側の急坂を下る道が「旧中山道」(左)。

 急坂を下り右に曲ると多数の石仏・石塔がある。その先にも道祖神などが街道際に並べられているが、ここは「長坂の石仏群」(右)。

 高さ30センチほどの「小さな道祖神」(右)がなんとも可愛いんだ。

道はすぐに「鹿曲川(かくまがわ)」(左)に突き当たるので、川に沿って左に曲り長坂橋を渡っていく。

 川沿いの説明板によると、望月宿は、かつては鹿曲川の右岸にあったのだが、寛保2年(1742)の大洪水で宿場がそっくり流されてしまったため、左岸の現在地に移転したのだそうだ。

 長坂橋を渡ったら道成りに坂道を上り、突き当たったら右に曲り、すぐの交差点を再度右に曲ると「望月宿の町並み」(右)に入れる。この先はのんびり歩こうではないか。

 

 まず向かった先は交差点から数分先を左に曲り、坂を上がったところの望月支所(旧望月役場)。 「望月の駒」(左)が颯爽(さっそう)と闊歩していたが、 名馬・月毛の駒 とはこの馬かな?


 街道に戻ると、道路の向こう側に「旅籠山城屋」(右)が見える。江戸時代末期創業の旅籠であるが、現在も旅館として営業しており、街道歩きの旅人には結構人気がある。

 
 

 山城屋の少し先、左側の奥まった建物は「望月宿歴史民族資料館(左)だが、ここは本陣があった場所。縄文時代から江戸時代にかけての歴史が展示されているので見学お勧め。


 その隣の小児科医院は本陣を務めた大森家で、玄関脇に「御本陣」(右)と記された看板が下げられている。

 本陣の斜め先は「鷹野家脇本陣跡」(左)。江戸時代は問屋も兼ねていたそうだ。出梁に木鼻彫刻が施されているのが印象的。

 その先にも木鼻彫刻が施された建物があるが、ここは望月宿最古の旅籠である「真山(さなやま)家住宅」(右)。

 問屋と旅籠を兼ねていたという建物は天明3年(1783)に完成したもの。国指定の重要文化財となっているが、今も住居として使われている。

 街道沿いにはこの他にも土蔵造りの家や連子格子の家などが何棟もあり、趣のある町並みだ。

 宿外れの急な階段の上にある神社は景行天皇40年(110)に鎮座したという「大伴神社」(左)。本殿は延宝5年(1677)の建築であるというから、ともに大変な歴史を持つ神社である。

 残念ながら、本殿は社殿の奥深く。見ることはできない。

 街道に戻るとこの先はのどかな田舎道。小学校跡横の緩い上り坂を歩いていると「御巡見道道標」(右)が目にはいった。各地に巡見街道というものがあるが、ここも巡見使が歩いた道なのだろう。
巡見街道:江戸幕府が諸藩を査察する目的で派遣した巡見使が歩いた道。

 信濃地方へ入ってから頻繁に見るようになった「夫婦道祖神」(左)であるが、小学校跡の少し先にも二つありました。一つは比較的新しいものだが、信州人は夫婦道祖神がよほど好きなのだろう。


 その先の道路標示に「旧中山道 茂田井宿」とある。道路標示の先を右に下る道が「茂田井宿入口」(右)であるが、間の宿である茂田井には江戸時代がそのまま残っているそうだ。

 


 
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