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第24宿八幡宿 やわたじゅく
 八幡宿は、中山道を整備する際、周辺の三村を移住させて造った宿場で、塩名田宿から比較的近い場所にある。

 宿場時代の面影は少ないが、ひなびた街道 という雰囲気が残っている。

平成21年2月5日  男女が酒を酌み交わすという、珍しい祝言道祖神がありました。

 塩名田宿を出て中津橋を渡ると、橋の袂に千曲川に架けられた橋の変遷が記されている。今は頑丈な橋で簡単に渡ってしまうが、江戸時代は
橋が流されることが多く、大変な苦労をして主要街道である中山道千曲川往還の確保を行っていたようだ。

 橋を渡ると御馬寄(みまよせ)の上り坂となる。旧中山道は坂の途中から右の細い道に入っていくが、坂を上りきった所の右側高台に鎮座している石像は「大日如来像」(左)。

 何故ここに大日如来が、うーん、分かりません。江戸時代初期の作だそうだ。

 大日如来像の横に「芭蕉句碑」(右)が建てられている。
  涼しさや 直ぐに野松の 枝の形     芭蕉翁
 何故ここに 涼しさや・・・ なのか、これも分かりません。

 この先で、さきほど分かれた道と合流するが、合流してすぐの右側に「御馬寄一里塚跡」(左)がある。標柱が建てられているが、ここは江戸から44番目(約173km)の一里塚。


 塩名田宿と八幡宿の間には何基かの石仏・石塔があるが、佐久西自動車学校を過ぎたところにあった「石塔」(右)には真新しい注連縄 が掛けられている。神様・仏様を大事にする風習、いいですねー。

 浅科支所を過ぎると緩い下り坂、この途中にも馬頭観音などの石仏が見られる。 緩い坂を下った先から八幡宿であるが、宿場の入口に
鎮座しているのは宿名にもなった八幡神社。

 吾妻鏡(鎌倉時代)にも記述がある八幡神社、創建年代は定かではないが、歴史の重みを感じる建築物が多い。

 「随神門(楼門)(左)は天保14年(1843)の建立で、さほど古くはないが、梁・桁回りに施された彫刻の素晴らしいこと。しばらく見とれてしまうほどである。

 本殿は天明3年(1783) ・ 拝殿は天明4年(1784) の建立であるが、旧本殿である「高良社」(右)ははるかに古く、延徳3年(1491)の建立というから室町時代の作。重要文化財に指定されている。

 街道に戻り数分歩くと皇女和宮も宿泊したという小松家の「本陣門」(左) が当時のまま残されており、中山道八幡宿本陣跡 と刻まれた石碑も建てられている。

 八幡宿には本陣1軒の他に脇本陣が4軒あったということだが、脇本陣の場所が分からない。

 地元の人何人かに聞いたところ、本陣の斜め先の門が「脇本陣の門」(右)だということであったが、他の3軒は分からないとのこと。残念なことだ。

心残りのする八幡宿を出て7〜8分、国道142号に合流した辺りから右手を見ると広大な「御牧原(みまきがはら)(左)が見渡せる。

 この辺りは奈良時代から平安時代にかけては御料牧場で、旧暦8月満月の日に朝廷へ馬を献上していたことから「望月の牧」と呼ばれ、多くの歌人が望月を題材にした歌を残している。

 もう少し先の百沢東交差点から「百沢(ももさわ)集落入口」(右)へと入ってゆくのだが、柵を乗り越えないといけないのでちょっと分かり難い。

 「百沢集落」(左)は、わずかな区間であるが昔のたたずまいが残っており、『これぞ中山道』 そんな雰囲気を感じさせてくれる道である。


 集落の終わり近くに、この辺では珍しい「祝言道祖神」(右)が祀られている。傍らの説明板によると、安曇地方で発生した道祖神で、宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交わすという祝言像。

 百沢集落を出た旧中山道は国道142号を横断して道成りに数分。「牧布施道道標」(左)から右の山道に入ってゆく。この道標は元禄の道標とも言われているが刻まれている文字は「右仲仙道」。

 右の細い道に入った「旧中山道」(右)は2〜3軒の家並みを過ぎると、わずかな区間であるが枯れ草を踏みしめての街道歩きが楽しめる。

 すぐに道は突き当たってしまい、旧中山道は藪の中に消えてしまう。ここは右に曲り、再度国道142号を横断して自然遊歩道を歩くことに。
 

 山間の坂道をしばらく上ると「瓜生坂一里塚」(左)が見えてくる。ちょっと形が崩れているが左側はほぼ原型、右側はかなり削り取られてはいるが、左右両塚とも現存するという貴重な一里塚。

 一里塚の先、数分で瓜生坂の頂上であるが、ここに「瓜生坂碑」(右)が建てられている。隣には百万遍念仏塔も。

 旧中山道はこの手前から左へ曲り、藪の中の急坂を下っていくのだが今は道が無い。このままうねうねと曲った坂を下り、25番目の宿場である望月宿へと入っていく。


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