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第23宿塩名田宿 しおなだじゅく
 塩名田宿は千曲川の東岸にあり、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠10軒ほどの小さな宿場である。普段は穏やかな千曲川であるが、増水すると橋が流され川止めになることが多い宿場であった。

 宿は東から下宿、中宿、河原宿と3宿に分かれていたが、河原宿には往時の面影がよく残っている。

平成21年2月4日  天然にがりの極上豆腐は午前中に売り切れてしまうそうだ。

 岩村田宿の相生の松を見た後、国道141号を越えるとのどかな田舎道が続く。平塚、塚原の集落を通って下塚原まで来ると、道が二手に分かれるが、左に入る細い道が「旧中山道」(左下)である。

 5分ほど歩くと先ほど分かれた道に合流するが、合流点の向こう側、階段の上奥に見えるのは「駒形神社」(右)。
 
 重要文化財となっている本殿(社殿の中にある)は文明18年(1486)の再建と云われている。本殿の中には騎乗の男女2神像が安置されており、この先の「望月の牧の守り神」と伝えられているそうだ。

コメント:「望月の牧」は奈良時代から平安時代にかけて、天皇へ献上する馬を飼育していた牧で、歌枕の地ともなっている。

 駒方神社前の坂道を下り、塩名田交差点までくると「中山道塩名田宿」(左)と記された標柱が建てられており、交差点を横断した先が塩名田宿・下宿。

 昔の面影は少ないが、数分先の中宿までくると当時の建物なども残っており、少しだが宿場時代雰囲気が。

 塩名田宿には、千曲川の川止めに備えて2軒の本陣と1軒の脇本陣が用意されていた。その1軒は、現在は食料品店となっている大井屋の場所が「丸山善兵衛本陣跡」(右)である。
 

 丸山本陣跡の斜め先の切妻・大屋根の建物も「本陣・問屋跡」(左)でこちらは丸山新左衛門家。ちなみに脇本陣は丸山文左衛門家と、丸山一族が本陣・脇本陣を務めていた。

 新左衛門家本陣の建物は宝暦6年(1756)に再建されたもので、改装されながら、現在も住居として使われている。

 本陣跡の隣が「高札場跡」(右)で、一部が復元されている。今は掲示板として使われているため、説明板が無ければ見落としてしまいそう。

 高札場跡の斜め先にある 「佐藤家住宅」(左) は、塩名田宿で最も古式の町屋の様式を伝える建物。1階の桁は曲り材がそのまま使われており、なかなか味わいがある。

 その先の白壁・土蔵造りの建物は最近建てられたようだ。

 さらにその先の「えび屋豆腐店」(右)の建物は江戸時代末期に建てられたもの。老夫婦が天然のにがりで豆腐を作っているそうだが、その味は極上。午前中には売り切れてしまうのだとか。

 えび屋豆腐店から数十メートル先で旧国道(現在は県道)は左に曲って中津橋を渡って行くのだが、旧中山道は右側を下って「河原宿へと向かって行く」(左)。


 坂を下った左側に東屋があるが、ここは「瀧大明神社跡」(右)。かつて、傍らのケヤキの大木(今は枯れている)の根本から大量の清水が湧き出ており、旅人の喉を潤していたそうだ。

 この場所には十九夜塔や道祖神も建てられている。

 東屋の隣は「角屋」(左)と呼ばれた休み茶屋跡で、建築年代は不明だが木造の3階建てである。この周辺には3階建てが何軒かあるが、なんと、旧国道沿いには木造4階建てがあり、ビックリ。

 この辺りを「お滝通り」と呼んでいるが、この先を右に曲ると、旅籠風の建物が何軒かあり、かつての宿場の面影が残っている「河原宿跡」(右)である。

 突き当たりが旅人泣かせの千曲川。江戸時代から明治にかけてはここから川を渡っていたのだが、今もその痕跡がある。

 橋を架けては流されを繰り返した千曲川。明治6年(1873)、6艘の舟をつないだ舟橋を架けたのだが、その際、舟をつなぐために使われたのが「舟つなぎ石」(左)。明治26年(1893)まで使われたそうだ。

 今はこの先には橋が無いので川に沿って左に曲り、県道に出て「中津橋」を渡っていくことに。

 橋の上からは穏やかな流れの「千曲川」(右)が望めるが、この川は多くの歌人が題材とした歌枕でもある。


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