中山道の表紙に戻る




    

第19宿沓掛宿くつかけじゅく
 沓掛宿は浅間山の大噴火と飢饉で苦しんだ宿場であった。

 昭和26年
(1951)の大火で宿場のほとんどが消失し、昭和31年(1956)には沓掛駅が中軽井沢駅に変わり、沓掛という地名も中軽井沢に。
今は「沓掛時次郎」の石碑のみが沓掛を名乗っている。

平成21年1月6日    「遠近宮」 う〜ん、えんきんぐう? 違うだろうな。

 信越線のガード下を通って国道18号に出たら左に曲がって行くのだが、目の前の「長倉神社」(左)に寄り道を。  剣には滅法強いが人情にはからきし弱い男 の石碑があるそうだ。

  千両万両枉(ま)げない意地も 人情搦(から)めば弱くなる
  浅間三筋の煙の下で 男 沓掛時次郎

 流行歌の一節が刻まれた石碑は「沓掛時次郎碑」(右)。

 長谷川伸の筆によって生み出された人物だが、沓掛宿ではここでのみ「沓掛」という文字を目にすることができる。

 街道に戻り数分歩くと、玉石垣の中に比較的大きな建物が見えるが、ここは今でも現役で旅館業を営んでいる「旧脇本陣(左)の枡屋本店。

 街道に目を転じると信号機の表示に中軽井沢と記されているが、この辺りが「沓掛宿」(右)の中心街であった。

 旧信越線の沓掛駅が中軽井沢駅に名称変更すると、地名も中軽井沢と変えてしまったのだとか。これで中山道の歴史が一つ消滅。


 中軽井沢交差点先の八十二銀行駐車場奥に「脇本陣蔦屋跡碑」(左)が建てられている。沓掛宿には脇本陣が3軒あったということだが、もう1軒は探すことができなかった。


 道路を渡った反対側に「本陣 土屋」(右)と表札が出ている家があるが、ここが皇女和宮が一泊した沓掛宿本陣跡である。

 本陣跡から数分で沓掛宿は終わるが、終わった辺りに小さな石仏が建てられている。この石仏は「草津道道標」(左)となっており、左側面に刻まれた文字は「右くさつへ」。

 国道は真っ直ぐに坂を上って行くが、旧中山道は左の細い道に入って行く。

  左に入ったすぐの所で高さ30センチほどの可愛らしい「夫婦道祖神」(右)に遭遇。

この先は、ちょときつい坂道を上り、上りきったところで車道を横断し、今度は下っていく。

 国道18号と平行する「旧中山道」(上左)は、車の騒音もなく、所々に野仏や馬頭観音があるのどかな街道である。
しばらく歩いて国道18号に合流し、18号バイパスの下を通ってもう一度左側の旧道に入ると、ふたたびのどかな旧中山道が続く。

 数分歩くと「女街道入り口」(左)なる説明板が。
 「関所さけて 女人が多く往来せし女街道と いふは寂し」と記されて
いるが、女人街道は広漠たる地蔵ケ原を横切っていったのだそうだ。


 その先に「遠近宮」(右)という神社がある。在原業平の
 「信濃なる浅間の嶽に立つ煙 遠近人の見やはとがめん」
にちなんで付けられたという神社名は「をちこちのみや」

 遠近宮を過ぎた辺りは、江戸時代には 間(あい)の宿 として大変賑わっていた「借宿(かりやど)と呼ぶ集落である。

 その集落に「杉玉が下がった民家」(左)があったが、かつては造り酒屋だったのだろうか。


 さきほど来ずっと見えていた「浅間山」(右)がますます近くに見える。浅間山は歌枕の地、多くの歌人が詠っているが、芭蕉も一句。
  吹きとばす 石はあさまの 野分(台風)哉   芭蕉

 沓掛宿からの中山道沿いでは野仏をよく見かけるが、中でも多いのが「馬頭観音」(左)。遠近宮から10分ほどのところで見た馬頭観音(左写真)は高さが5m近くという圧倒される大きさ。


 ほどなく国道18号に合流する。合流点右側の「従是左上州・・・・・」と刻まれた道標は「上州道道標」(右)と呼ばれ、草津方面への道案内をしている。
この先は、10分ほど国道18号を歩き、追分一里塚の先で今度は右に入ると、次の宿場の追分宿である。

前の宿場軽井沢宿へ     次の宿場追分宿へ     表紙に戻る