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第18宿軽井沢宿かるいざわじゅく
 信濃国に入って最初の宿場である軽井沢宿は、碓氷峠を越えてきた旅人で
大変賑わっていた。 しかし宿駅制度が廃止され、国道が開通すると旅人の
往来が無くなり急激に衰退。
 その後、別荘地として再び賑わいを取り戻したのだが、その分、往時の面影は
すっかり失われてしまった。

平成21年1月6日   観光客でごった返す軽井沢宿(旧軽銀座)も、平日の早朝は静寂そのものでした。

 軽井沢宿への入り口は「二手(にて)橋」(左)からである。
軽井沢宿華やかなりし頃、宿場に泊まった旅人が飯盛女(めしもりおんな)に見送られ、ここで東西二手に分かれた場所なのだそうだ。

 橋を渡る前にちょっと寄り道を。

 手前を右に100mほど歩くと「室生犀星文学碑」(右)が見られる。
 我は張りつめたる氷を愛す 斯る切なき思いを・・・・・・
野間文学賞受賞を記念し、自ら設計して建てた碑だそうだ。

 二手橋を渡ると、軽井沢の恩人「アレキサンダー・クロフト・ショー氏の胸像」(左)がある。

 国道から外れた軽井沢宿は旅人も通らなくなり衰退の一途をたどっていたが、A・C・ショー氏が別荘を建て、避暑地として広く紹介したことによって再び蘇ったのであった。

 その先の街道際の石碑は天保14年(1843)、当地の俳人によって建てられた「芭蕉句碑」(右)。
   馬をさえ ながむる雪の あした哉    芭蕉翁

 芭蕉句碑から 1〜2分歩いた右側の旅館は、 江戸時代初期の創業である旅籠鶴屋。 明治以降は「つるや旅館」(左)となり、島崎藤村、 芥川龍之介、 志賀直哉など多くの文人が泊まっている。


 つるや旅館の辺りから「軽井沢宿」(右)となるのだが、現在は「旧軽銀座」と呼ばれ、休日ともなれば若者でごったがえす商店街。この日はウイークデーの早朝、なんと静かなたたずまいだこと。

 軽井沢宿には本陣1軒、脇本陣が4軒あったということだが、今は宿場時代の面影は全く無い。

 やっと探し当てたのが 旧軽銀座の看板下を右に入った奥の「明治天皇軽井澤行在所碑」(左)。ここは軽井沢宿本陣があった場所で、明治天皇はここで昼食をとられたそうだ。

 街道に戻り3〜4分歩くと三笠通りとの交差点で旧軽銀座も終わるが、宿場もここまで。江戸時代は「京側枡形道」(右)があったのだが今は大きなロータリーに変身。

 ロータリーの先からは商店などは無く、林の中に別荘が散在するという静かな景色に急変する。 しばらく歩くと、六道の辻ならぬ「六本辻」(左)の交差点。



 六本辻を過ぎて4〜5分、看板に「雲池場」と記されている。 えーっ、うんちば?そんな・・・・よく見ると「雲場(くもば)池」(右)でした。街道から右に入った奥ですが、残念ながら雲場の説明は見当たらなかった。

 この先も「唐松林の中の中山道」(左)を行くのだが、冒頭の離山を右に見ながらの快適な街道である。

 唐松林が切れてからしばらく歩くと「野仏」(右)に出会える。軽井沢というと、なんとなく瀟洒なイメージ であるが、こんな素朴な風景に行き会えるのも街道歩きの魅力。

 旧中山道はこの先で途切れてしまうので、わずかな区間であるが国道18号を歩くことになる。

 国道に出て高架下を通ると歴史民族資料館の看板が目に入る。残念ながら冬季(11月〜3月)は閉館。その先の「市村記念館」(左)(大正初期の近衛文麿公の別荘)も閉館。残念。

 旧中山道は、記念館の先の信号を左に渡り、信濃鉄道の踏み切りを越えると再び復活。

 踏み切りを渡って右に曲がり、緩い坂を下って前沢橋を渡ると信濃鉄道のガード下となるが、手前を左に曲がり坂を上ると、墓地の左端に「宮ノ前一里塚跡碑」(右)がひっそりと立っている。
旧中山道はこの先で分断されてしまうため、さきほどの信濃鉄道のガード下まで戻り、下をくぐって国道18号を左に曲がっていく。



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