中山道の表紙に戻る


  
  

碓氷峠うすいとうげ
 碓氷峠は中山道最大の難所であるが、古くは日本武尊が東征の際に利用したとされるように、古代から東国と都を結ぶ主要街道の一部であった。

 坂本宿から峠の熊野神社までの高低差は約700m。登山口から覗きまではジグザグの急坂が続くが、その先は木漏れ日の中の快適な道が続く。

 峠からの下りは、旧中山道が途中で消滅しているため、碓氷遊覧歩道を下っていくのだが、よく整備されており安全に下ることができる。

平成20年12月13日   ついに上野国から信濃国へ、群馬県から長野県へ。国境を越え、県境を越えました。


 碓氷峠への出発点は「登山口バス停留所」(左)である。 今はここに停まるバスの運行が無いので横川駅からは、タクシーを利用するか歩くのみ。徐々に不便な地域に入ってきた。


 いよいよ「登山口」(右)から登り始めるのだが、すぐにジグザグ道の急登、しかも薄暗い。いやー、これは先が思いやられる。

 登り始めて4〜5分、最初の説明板が「堂峰番所跡」(左)。
 江戸時代、関所破りを取り締まるための番所があった場所で、今でも石垣の一部が見られる。

 この先も急登の連続。

 かれこれ30分ほど登ると「柱状節理」(右)なる絶壁がある。説明板によると 「火成岩が冷却・固結するとき四角または六角の柱状に割れたもの」 とあるが、珍しい景色だ。

 柱状節理のすぐ先に馬頭観音や大日尊などの「石塔」(左)が並んでいる。坂本宿の外れにあった「芭蕉句碑」もかつてはこの場所にあったそうだ。

 この辺りの坂を「刎石(はねいし)坂」(右)と呼んでいるが、溶岩節理の角ばった石がゴロゴロしている急坂で、ここを歩いた馬は可哀そうだったなー、などと余計な心配をしてしまった坂である。

 ちょっと先に「上り地蔵・下り地蔵」の案内板があるのだが、探しても見つからんのよ。

 
刎石坂を登りきって右に曲がると・・・ 絶景。坂本宿が一望。(左下)

 ここは碓氷峠を歩いた皆さんが、必ず話題にする「覗き」(左) と呼ばれている場所で、江戸時代から坂本宿が望める景色の良い場所だったようだ。

 一茶もこの絶景を見て一句。
 坂本や 袂の下の 夕ひばり  

 覗きから先は緩やかな道になりホッとする。まもなく「馬頭観音」(右)があり、その先に「風穴」(右)なる変わった穴がある。手をかざすとほんのり暖かい風が。

 まもなく右側に「弘法の井戸」(左)が見えてくる。その昔、刎石山頂の茶屋が水不足で困っていたとき、弘法大師が「ここに井戸を掘ればよい」と教えたのだそうだ。

 だが待てよ、弘法大師は1200年も前の人、そんな昔から茶屋があったとは信じられんが。

 その「刎石茶屋跡」(右)がちょっと先にある。4軒の茶屋があり、一軒は茶屋本陣であったそうだ。まだ当時の石垣などが残っている。

 茶屋跡の100mほど先に「碓氷坂関所跡」(左)の説明板が建てられており、「昌泰2年(899)、碓氷関所を設けた場所」と記されている。
                             後ろに見える東屋は休憩所である。

 となるとこの時代に茶屋があり、弘法大師が井戸の場所を教えたということも、おかしくは無い。深く詮索したのは野暮だったかなー。

 しばらく歩くと道が急に狭くなっている。ここは「堀切跡」(右)と呼ばれているが、豊臣秀吉の小田原攻めの際、松井田城主大道寺駿河守が、狭かった道をさらに削って北陸・信州軍を防戦した場所である。

 さらに数分歩いて切り通しを抜けると絶壁の途中に「南向き観音」(左)が、その先を右に曲がると「北向観音」(左)が鎮座している。

 険しい山道を歩いてきた旅人は観音様の優しいお顔に癒されたことだろう。

 10分ほど歩くと「一里塚跡」(右)の説明板がある。東山道時代は、ここから左に登ったところに一里塚を築いたのだそうだが、確認はできなかった。

 一里塚跡から数分歩くと「座頭ころがし」(左)の急坂に差し掛かる。

 甲州街道犬目宿に、急カーブで転げ落ちるという「座頭ころがし」があったが、こちらは滑りやすい赤土の急坂で転げ落ちてしまうという「座頭ころがし」。 この時期は落ち葉が敷き詰められている。

 座頭ころがしを登りきった先にも碓氷峠を歩いた人が必ず話題にする物がある。狭い山道の連続であるはずなのに「廃車」(右)があるではないか。信じられん。

 この狭い道をあの車がどう通ったのだろうか、などと考えながら十数分。今はがけ崩れなどのため立ち入り禁止となっているが「明治天皇御巡幸道」(左)が左から上がってきて合流する。

 そのすぐ先のちょっと広くなった場所は「栗が原」(右)と呼ばれ、明治8年(1875)に「見回り方屯所」が出来た場所。これが交番のはじまりなのだそうだ

 この先からは平坦な道となり、雑木林の木漏れ日が気持ちよ〜い。

 しばらく歩くと杉林の中のV字型の道に変わっていくが、この辺りを入道くぼ と呼んでいる。説明板の上に見える石碑は「線刻馬頭観音」(左)。
 
 

 入道くぼを出ると車が通れるほどの広い道になるが、左側にかなりしっかりした「コンクリートの擁壁(ようへき)(右)が造られている。こんな山中にどんな目的で造ったのだろうか?

 疑問を残しながら擁壁を通り過ぎると「山中茶屋跡」(左)の説明板がある。 寛文2年(1662)には13軒の立場茶屋があり、茶屋本陣には「上段の間」が2カ所もあったというからかなり本格的。

 明治に入ると小学校もできたというが、今は林の中に飯場のような廃屋がポツンと建っている寂しい場所である。

 その先の坂を「山中坂」(右)、別名「めし喰い坂」と呼んでいる。あまりに厳しい急坂が続き空腹ではだめなので、山中茶屋で飯を喰って登ったのだそうだ。

 あえぎあえぎ「めし喰い坂」を上ると「一つ家跡」(左)の小さな広場がある。「ここには老婆がいて、旅人を苦しめていた」と記されているが、どんな悪さをしていたのだろうか?

 一つ家跡から数分歩くと「陣馬が原」(右)と呼ばれる古戦場跡に到着する。古くは、太平記に新田方と足利方の合戦が記され、戦国時代になると武田方と上杉方の合戦が行われた場所。

 古代から、旅人以外にも多くの兵士が行き交ったこの道だが、今は街道を旅する一部のマニアだけが通る道となってしまった。

 陣馬が原で道は「追分」(左)になっている。真っ直ぐ行く道は皇女和宮が降嫁する際に造られた「和宮道」、旧中山道は左の林の中に入って行く細い道である。

 追分の右側に「万葉歌碑」(右)(碑と言うほどのものではないが)が建てられている。

 兒持山若かへるでの もみづまで 
      寝るもと吾は思う 汝はあどか思う

                     万葉集巻14東歌  読人不知

 追分を左に入ると落ち葉が敷き詰められた平坦な道が続く。

 まもなく小川が横切っているが、ここは「化粧水跡」(左)といわれる場所。旅人が一息入れ、水に映った己の姿を整えた場所なのだそうだ。


 もう少し歩くと「人馬施行所跡」(右)に到着する。文政11年(1828)、江戸の呉服商・与兵衛なる人物が人馬の休憩所を造った場所。丸太が1本転がっていたが、当時の残骸?ってなことはないな。

 施行所跡の先の小川を渡ると、熊笹の中を細い道がジグザグに上っていく。山肌を巻くように登り、そろそろ休憩がしたいなーと思う頃「熊野神社」(左)の標識が見えてきた。ほっとするひと時である。


 平坦な道を100mほど歩くと、先ほど分かれた「和宮道との合流点(右)に到着である。もう頂上の熊野神社が近い。

 右から来た和宮道と合流した場所に、明治維新で廃棄された神宮寺の仁王門跡碑や小さな祠などの「石塔群」が散在。
 

 左端の石塔は「思婦石」(右)、別名「日本武尊をしのぶ歌碑」とも言われており、国学者 関橋守の作で安政4年(1857)建立の歌碑である。

 ありし代に かえりみしてふ碓氷山 
            今も恋しき 吾妻路の空
    皇朝学士関橋守

 和宮道と旧中山道の間の坂道を下ると、数字が並んだ「一つ家の歌碑」(左)を見ることができる。この碑は復元であるが、元の碑は弁慶が爪で書いたのだそうだ。
八万三千八三六九三三四四 一八二四五十二四六百々億四百
やまみちは さむく さみしし  ひとつやによごとにしろくももよおくしも


 旧中山道に戻り1〜2分、茶店しげの屋の駐車場奥にも数字が並んだ「みくにふみの碑」(右)が建てられている。
写真はH21、1、6撮影です。 四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十 四万万四 二三 四万六一十
よしやよし  なにはおくとも  みくにふみ よくぞ  よままし  ふみ  よまむひと
よしやよし 何は置くとも み国書(ふみ) よくぞ読ままし 書(ふみ)読まむ人 
写真はH21、1、6、撮影です。


 いよいよ中山道碓氷峠の頂上。目指してきた「上信国境碑」(左)が街道際に建てられてる。ここは上野(かみつけ)国と信濃国の国境。

 ついに国境を越えました。


 道路を挟んだ後ろ側には碓氷峠を登ってきた参勤交代の諸大名が、参拝のために通った「熊野皇大神社参道」(右)が、早く参拝してと待っている。

 神社の参道に入ると「山口誓子句碑」(左)がある。

  剛直の 冬の妙義を 引き寄せる   誓子
うーん、なんとも。


 鳥居の向こう側に、もう一対の「阿吽の狛犬」(右)があるが、長野県内で一番古く、なんと室町時代中期(1400年頃)の狛犬なのだそうだ。愛嬌のある狛犬です。

「熊野神社であり、熊野皇大神社」(左下)でもある社殿には、なんと、賽銭箱が二つ並んでおり、鈴も二つ。

 あれっと思うが、この神社は上・信の国境上にあり、上野国側では熊野神社と呼ばれ、信濃側では熊野皇大神社と称されている。歴史は大変古く、日本武尊が碓氷峠で霧にまかれた時、八咫烏(やたがらす)の道案内で、無事に峰へ達することが出来たので熊野大神を祀った、と伝えられているそうだ。

 境内周辺は大変見どころが多い。
・ここは日本武尊が愛妃・弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)を偲び「吾嬬者耶(我が妻よ)」と嘆いた地。
・伊達政宗が慶長10年(1614)、峠に登ってきたときに一句。 夏木立 花は碓氷の 峠かな
・鎌倉時代の正応5年(1292)に奉納されたという群馬県内最古の古鐘もある。
・境内左には樹齢800余年といい伝えられているシナノキも。
「碓氷峠のあの風車 たれを待つやらくるくると」と追分節に歌われた「石の風車」は神門前にある。
                                  上記5項目の写真はこちら。

 神社を出て軽井沢側にちょと下ると、今度は「渡辺重石丸(いかりまろ)の数字歌碑」(左)が。
  四八八三十 一十八五ニ十百万三三一ニ 五十四六一十八三千百万四八四
  世は闇と 人は言うとも正道(まさみち)に 勤しむ人は道も迷はじ

 その先、駐車場脇から細い道が下っていくが、この道が旧中山道である。傍らの説明板に、 苦しくも 峠を越せば花の里 みんな揃って軽井沢 当時の旅人の歌である。

 この道は途中で消滅しており、歩くことはできない。

 旧中山道が歩けないので、この先へは車道を歩くか遊歩道を歩くかの2択を迫られる。まだ雪が無いので遊歩道の選択が賢明のようだ。
ということで左に曲がったが、遊歩道に入る前に寄り道を。

 碓氷の山は 歌枕の地 ところが、これまで歌枕に係わる場所が見つからなかった。この先の「見晴台」に有るかもしれない。

 ありました、「万葉歌碑」(左)が。
  日の暮に うすひの山を こゆる日は せなのが袖も さやにふらしつ
                                万葉集巻14 東歌3402 
  ひなくもり うすひの坂を こえしだに いもが恋しく わすらえぬかも 
                               万葉集巻20 防人歌4407
 見晴台の中央で、今度は群馬県と長野県の県境を越えました。

 見晴台の入口に「碓氷峠遊覧歩道」(左)の標識が出ているのでこれに従って右に入り、整備された道を下りに下って行く。途中に小川などがあるが、小さな橋が架かっており、表示も出ているので迷うことはない。


 かれこれ1時間ほど下ると「吊り橋」(右)が現れるので、これを渡ると軽井沢の別荘地。その先もどんどん下っていくと信濃国(長野県)最初の宿場である軽井沢宿に入ることができる。。


前の宿場坂本宿へ    次の宿場軽井沢宿へ    表紙に戻る