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第16宿松井田宿まついだじゅく
 松井田宿は信州各藩から集まる年貢米の中継地となっており、
その半分が松井田の米商人によって換金され、残り半分は倉賀野
から江戸に運ばれていた。 そのため「米宿」と呼ばれ商業が大いに
栄えた宿場であった。

平成20年11月12日     石なのに、たたくと茶釜のようにカンカンと鳴る。蜀山人も思わず「珍しい!」。

 妙義山を正面に見ながら街道を進むと「国道18号」(左)に合流。
これまでも何回か見てきた「旧中山道」の表示がここにもあったが、よく見ると飛脚が追加されているのです。

担当者のちょっとした気配りですかな。

 ここには横断歩道が無いが、国道の向こうに渡ると「妙義道常夜灯」(右)が見られる。文化5年(1808)、地元の妙義講の人々が建立したもの。妙義山への参詣者の道しるべとなっていたそうだ。

 国道に合流すると400mほどの区間は国道と重なっているが、その先で「左へ下る旧中山道」(左)に入ることができる。

 下る手前から左前方を見ると「妙義山」(右)の全貌がよく見えるが、ここは妙義山を写真に撮るには絶好のポイント。だが、今日はちょっと天候が悪くてくっきりと見ることができない。

 妙義山は、かつては「波己曽山」と呼ばれた歌枕の山。
  かうづけや波己曽の山のあけぼのに二声三声鳴くほととぎす
                                        信生法師集26

 坂を下ってしばらく歩くと国道から分かれてきた道と合流。さらに10分ほど歩いたところの下町郵便局辺りが「下の木戸」があった場所で、ここから宿場街となるのだが、表示が無いので確かなことは分からない。

 その先の「下町交差点」(左)に中山道 松井田宿の標柱が建てられている。この付近には伝衛門脇本陣があったということだが、ここにも表示は無い。

 さらにその先の仲町交差点手前の信用金庫が「本陣跡付近」(右)ということだが、ここも表示が無い。

 松井田宿には本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠が25件ほどあったと商店街の案内板に記されているが、 旧松井田町(現在は安中市)は「中山道の宿場町」ということに興味がなかったのだろうか。
ここから平成20年12月3日

 街道沿いには宿場時代の表示など無いが、古い民家がポツポツと見られ、「旧街道を歩いている」そんな雰囲気は味わえる。


 仲町交差点の先左側にちょっと目立つ蔵造り風の建物があるが、ここは「伊勢屋」という屋号が掲げられた「辻中薬局」(左)。

 辻中薬局の反対側、交差点際の民家は「畑中医院跡」(右)と言われているが、かなり大きな建物。いつ頃建てられたのか気になる。

 仲町交差点を右に入って、ちょっと寄り道を。
突き当たりに小さな「道標」(左)がある。刻まれている文字は「右 榛名道  左 ??道」と。

 そこを左に曲がって数分、ちょっと奥まった高台の「不動寺仁王門」(右)は江戸時代初期の建築だそうだが、欄間に刻まれた彫刻は桃山時代の作風。

 門前に3基並んでいる「石塔婆」(右)はさらに古く、
観応3年(1352)の文字も見られる。 うーん、650年以上も前だ。

街道に戻り4〜5分歩くと右奥の彼方に松井田八幡宮の鳥居が見える。ここにもちょっと寄り道を。

 創立年代は不明だが、鎌倉右大将頼朝が建久8年(1197)に立ち寄ったという記録があるそうだ。「本殿」(左)は寛永年間(1624〜1644)建立という古いもの。群馬県の重要文化財に指定されている。

 街道に戻り15分ほど歩いた「西松井田駅前」の交差点から右に入った山中は、安中忠政が武田信玄の上野進出に備えて築城した松井田城跡。

 交差点先の「補陀(ふだ)寺」(右)には、松井田城の最後の城主であった大道寺政繁の墓がある。

旧中山道は補陀寺のちょっと先にある松井田警察署の手前を左に入って行く。

 左に入って1〜2分、右側の一段高くなった場所に道祖神があるが、その斜め前に「新堀一里塚」(左)の説明板がある。

 明治20年頃までは両側にあったということだが、今は民家の裏庭に左側のみが、わずかに盛り上がって現存している。(説明板先の路地を入ると見られる)

 旧中山道はその先で信越線踏切を越えて行くのだが、今は途中で消滅。やむなく線路沿いに歩き、次の「第十中仙道踏切」(右)を渡っていくことに。 ところで、「第一中仙道踏切」はどの辺りだったかなー。
 

 踏切を渡ってしばらく道成りに歩くと「国道18号と交差する」(左)。ここにも飛脚マークが。ちょっと先の横断歩道で国道を横断し、右を向くとここでも飛脚が待っているので迷うことは無い。

 高速道路の下を通って4〜5分、道路際に茶屋本陣 お西・お東の標柱があるが、その対面に建てられた立て札に「五料村 高札場跡」(右)と記されている。

 高札場跡の横を通って信越線の踏切を渡ると、目の前が五料の茶屋本陣である。

 
 五料村の茶屋本陣は2軒並んでおり、両家とも中島姓なので地元の人は「お西」(左)、「お東」(右)と呼んでいる。両家は1年交代で本陣を
務めていたそうだ。 見学したお西の「上段の間」(上中)には御簾が下げられており、いやはや格調高いこと。下々は近づきがたい。
現在の建物は文化3年(1808)の大火で焼失後、同年中に再建されたもの。

茶屋本陣を出てしばらく歩くと、またまた信越線の踏切。ところが、この踏切は「第**中仙道踏切」ではなく「榎踏切」となっている。

 踏切を渡って左に曲がり、「丸山坂」(左)を上っていくと「夜泣き地蔵と茶釜石」(右)なるものがある。
 この地蔵さん、夜な夜な泣いていたそうだ。何故かって、、、馬方が荷物のバランスを取るために地蔵の頭を深谷まで運び、そこで捨ててしまったからだとか。

 不思議なのは「茶釜石」(右)。れっきとした石なのに、傍らの小石でたたくとカンカンと茶釜のようが音がするのです。

 蜀山人も思わず「珍しい!」と言って一句
五両(五料)では あんまり高い茶釜石・・・・ ・・・

この先は山すそのひなびた道を歩き、中仙道踏切ならぬ高墓踏切を渡り、国道を横断して200mほど戻ったら右に入り、4〜5分歩いて一旦
国道に合流し、すぐに左に入って行く。この間に馬頭観音があったり碓氷神社があったり、夫婦道祖神もありと飽きることがない。

 国道に合流してすぐに左へ入り2〜3分歩くと再び国道に合流するが、その手前に「百合若大臣の足痕(あしあと)石」(左)なるものがある。

 その昔、百合若大臣なる人物が、「よし、あの山を弓で射抜いてやろう」といってこの石でふんばったところ 石が凹んでしまった、のだとか。
凄い足だなー。でも百合若って伝説上の人物なのです。

 国道に合流して4〜5分、横断歩道で右に移ると「第十五中仙道踏切」(右)がある。ここを渡っていくのだが、 えっ、第十踏切から五回も踏切を渡った記憶はないのだがなー?

 踏切を渡って山裾の緩い坂道を上ってゆくと、ほどなく人家が現れ、その先に峠の釜飯で有名な「荻野屋」(左)の看板が見える。荻野屋の前を左に曲がると信越線の終点横川駅だ。

 街道は荻野屋の横を通って真っ直ぐ続く。

 2〜3分先の右奥に見える風格ある建物は「横川茶屋本陣跡」(右)。入口に横川の茶屋本陣跡と記された標柱もある。代々横川村の名主を務めた武井家本陣で、現在も居宅として使われている。

 さらに4〜5分歩くと右側の高台に、復元された「碓氷(うすい)関所東門」(左)が見える。 元々は街道沿いに有った門だが、番所跡に復元したもので、 柱や門扉は当時のもの。

 傍らに「おじぎ石」(右)なる四角い石が。

 甲州街道・金沢宿に「おてつき石」なる妙な石があったが、「おじぎ石」も妙な名前の石だ。 
 通行人はこの石に手をついて手形を差し出し、通行の許可を受けたのだそうだ。

関所跡のすぐ先で道はY字路となっているが、旧中山道は左に入り旧信越線の高架下を通って国道18号に合流する。

 国道はすぐに左へ曲がってしまうが、旧中山道は真っ直ぐ「薬師坂」(左)を上って行く。坂道に入ってすぐの階段上にある「薬師堂」(右)は、碓氷峠の無事通過を願って建立したのだとか。


 また近くに「清らかな湧水」(右)(薬師の湧水)があることからトコロテンを商う店があり、旅人はここで憩いながら旅装を整えたのだそうだ。

薬師坂を上って行くと再び国道に合流。その先は真っ直ぐに続く緩い坂を上り、上野国最後の坂本宿へと入って行く。

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