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第13宿高崎宿たかさきじゅく
 高崎宿は井伊直政が築いた高崎城の城下町として発展。上州路最大の
賑わいを見せる宿場町となったが、 諸大名が御城下での宿泊を敬遠した
ことから本陣、脇本陣は置かれていなかった。

平成20年10月15日  ときおり静寂を破って百舌の高鳴きが。ここは小林山達磨寺。 

 浅間山古墳から街道に戻り、次に目指すは高崎宿であるが、少々遠回り覚悟で寄り道したい場所がある。中山道沿いには何カ所か歌枕が
あるが、その一つ 『佐野の舟橋』 まで足を延ばすことに。

 街道を歩いて5〜6分、T字路交差点を左に曲がり上越新幹線のガード下を通った先の神社は、藤原定家を祀った「定家神社」(左下)である。

 しかし何故ここに藤原定家が。

 駒とめて 袖うちはらう かげもなし 佐野の渡の 雪の夕暮れ
 定家が詠んだこの和歌と佐野の地を結びつけ、高田神社に定家を合祀したのが、後に定家神社と呼ばれるようになったそうだ。  しかし、 この和歌の佐野は別の地と言われている。

境内右手に、佐野を詠った「万葉歌碑」(右)も。
 佐野山に 打つや斧音の遠かども 寝もとがころが おもに見える
                   万葉集巻十四 東歌3473

 定家神社を出て新幹線の高架下を4〜5分、十字路を左に下っていくと、目指した「佐野の舟橋跡」(左)である。今は舟橋ならぬ木橋が架けられているが、風情ある橋だ。

 多くの歌人に詠われたこの地で一首・・・ ・・・ う〜ん、とても無理だ、代わりに和泉式部の一首を
 いつ見てか つげずは知らん東路と 聞きこそわたれ佐野の舟橋

 十字路まで戻り、新幹線の下を通ったら右へ曲がり、坂道を上り切った所が謡曲「鉢木」の舞台となった「常世神社」(右)。
境内に鉢木の絵図(左)が掲示されているので、その一節を。

 大雪の夜、旅の僧が佐野源左衛門常世のもとに一夜の宿を求めてきたが、常世は極貧の身。寒さをしのぐ薪にも
苦労していたのだが、旅の僧のために大事にしていた鉢の木(梅・松・桜)を砕き、焚き火にして旅僧に暖を。

 常世は旅僧に「今は極貧の身だが、鎌倉に急があればすぐにもはせ参じる」と胸の内を語ったのだった。
それからしばらく後、各地の武士に鎌倉から召集がかかり常世も「いざ鎌倉」と駆けつけたのだが、かの旅僧は
鎌倉幕府執権・北条時頼だったのである。

言葉通りに鎌倉へはせ参じた常世に、時頼は梅・松・桜に因んだ地名の3ヶ所を領地として与えたのであった。

 常世神社を出て左に数分歩くと道端に「佐野の船橋歌碑」(左)が建てられている。

 かみつけの佐野の舟はしとりはなし 親はさくれどわはさかるがへ

 万葉集巻十四東歌 の中の一首だが、
佐野の舟橋に係わる村の男女の悲哀が刻まれたこの歌碑は、文政10年(1827)に建てられたもの。

 定家神社や常世神社まで見ることができ、遠回りして良かった。

 万葉の時代から江戸時代に戻り、次に目指すは高崎城の城下町。旧中山道をてくてくと40分、国道17号を越え、上信電鉄の踏切りを渡り、
あら町交差点に到着。 交差点を渡り左に50mほど歩いところに可愛らしい「あら町諏訪神社」(左)が鎮座している。

 本殿は総漆喰(しっくい)の塗籠造り、七賢人などの漆喰彫刻が施された、それはそれは立派なもの。江戸時代の度重なる火災から守るため漆喰造りにしたのだとか。

 街道に戻らずそのまま先へ進むと、「高崎城・三の丸水堀」(右)の前に出る。

 慶長3年(1597)、 徳川家康の命を受けた井伊直政が、 和田城跡に高崎城を築き明治維新まで続いたのだが、明治6年の廃城令で建物は取り壊され、水堀だけが残ったのであった。

 水堀の橋を渡り、市庁舎前を左に曲がった先に「三の丸外囲の土居と水堀」があり、さらにその外側に高崎公園がある。

 公園を横切った先の神社は、宮中で鵺(ぬえ)を退治したという「源三位頼政」を祀った「頼政神社」(左)。境内に据えられた「上州人無智また無才」と刻まれた碑は内村鑑三記念碑

 三の丸水堀まで戻り、堀に沿って歩くと「高崎城乾櫓」(右)と、武士などの通用門として使われた東門が見られる。

 廃城令で建物は取り壊されたが、乾櫓と東門が運良く払い下げられて名主の納屋として使われていたのだそうだ。

 

ここから平成20年10月30日

 乾櫓から中山道の連雀町交差点に戻り、再び街道の旅に。

 100メートルほど歩いて右に入ると、門扉に三葉葵が描かれた「大信寺」(左)に突き当たる。

 寺内に入ることは出来ないが、裏手の墓地に徳川忠長(三代将軍・家光の実弟)の墓がある。御乱行がとがめられ高崎城に幽閉された忠長であったが寛永10年(1633)に自刃。大信寺に埋葬されたのであった。

 街道に戻って7〜8分、本町3丁目交差点を左に曲がった所の土蔵造り商家は明治15年(1882)頃建てられたという「山田家住宅」(右)。
正面の黒漆喰はは重厚感たっぷり

 本町3丁目交差点で左に曲がった旧中山道はしばらく広い道路であるが、本町1丁目交差点を過ぎると、とたんに狭い旧街道に変わる。

 本町1丁目交差点から2〜3分歩くと 「恵徳寺参道」(左) の入口に『高崎』の由来が説明されている。
それによると、
 恵徳寺を開山した大光普照禅師は直政公( 高崎城初代城主 )の信任厚く、 ある時 「和田の名称を松崎と変えたいが」 の問いに 「松は枯れるが、高さには限りがない、その意をとって高崎はいかが」 と進言。直政公多いに喜び『高崎』と命名したと云う。


 恵徳寺のちょっと先 右側、「長松寺」(右)本堂の天井絵が見事。ガラス窓から覗いただけだが、狩野探雲作の龍が目をむいて睨んでいる。

 さらに数分歩くと「岡醤油のレンガ煙突」(左)が見える。天明7年(1787)創業の河内屋が、明治30年に「岡醤油醸造」をこの地で開業。
レトロな店内が懐かしい。一押しは「日本一しょうゆ」。


 岡醤油の斜め先右側にもレンガが見えるが、こちらは「山田文庫レンガ塀」(左)。もともとここにあった塀ではなく、大正時代に旧茂木銀行高崎支店の塀を移築したものだそうだ。

 旧中山道は山田文庫に沿って直角に右へ曲がって行く。その先は少しだけ旧街道の雰囲気が残る道を十数分、国道17号、国道18号そして
国道354号が交わる 君が代橋 の袂に到着。

 ここですぐに目に入るのが「君が代橋親柱」(左)。三つの国道が合流するこの場所はまるで高速道路のインターチェンジのようだが、それ以前の鉄橋の親柱が保存されていたのである。

 因みに「君が代橋」の由来であるが、明治天皇が北陸・東海御行幸のときに、木橋を渡ったことを記念して命名されたそうだ。

 さて、これから「君が代橋」(右)を渡っていくのだが、いったい何処を歩けばよいのやら、ちょっと複雑。3本ある橋の一番下流側を渡るのだが、入口が分かりずらい。ここを探すのも楽しみの一つ。

 君が代橋をまっすぐ渡ってしまうのはもったいない。ちょっと立ち止まって景色を眺めようではないか。

 左手を見ると、はるか彼方の山の上に「高崎観音」(左)のお姿が見える。


 右手に見える山並みは「榛名山」(右)。もちろん榛名富士も見える。良い景色だ。

 君が代橋を渡り、階段を下って橋の右側に回ると「万日堂」(右)がある。堂の中には、関東地方で唯一の みかえり阿弥陀 が安置されているが、残念ながら見ることはできない。

 一旦、国道に出て、すぐ先を右に入る道が旧中山道である。

 5〜6分先のY字路を左に曲がって行くのだが、その三角地帯の小さな石は「くさつみち道標」(右)。左に曲がって1〜2分の所にある背の高い石塔は「草津みち道標」(右)。

 ひなびた街道を10分ほど歩いた先の神社は「若宮八幡宮」(左)。平安末期の永承6年(1051)、奥州の安倍氏鎮圧に向かった源頼義・義家父子が建立したというから長い歴史を持つ。

 若宮八幡宮には多くの武将・兵士が参拝しているが、乃木大将も参拝に訪れているのだとか。

 街道沿いには何軒かのだるま工房があるが、この「だるま店」(右)、店頭にだるまを並べていました。うーん、なんだかフッと時間が止まってしまったような。

 数分先左側の建物はつい最近(平成9年)まで個人の住居として使われていた上豊岡の「茶屋本陣」(左)である。

 茶屋本陣を代々所有してきた飯野家では、居住のために内部の改装を行ってきたが、 「上段の間」(右)と 「次の間」 だけは江戸時代のまま手を加えていないのだそうだ。

 今は上段の間にも自由に入ることができる。江戸時代の大名は、殿様だけがこの部屋でくつろいだのだろうか。それとも御付の者達とわいわい言いながら休憩したのだろうか。

 
 茶屋本陣を出た後もひなびた街道をてくてくと歩くのだが、飽きない程度に見どころがある。 「地蔵様」「金崎不動尊」・「道祖神」があったり、「上州櫓造りの民家」も見られる。やがて国道18号に合流するので向こう側に横断すると碓氷川の土手下に「旧中山道」が延びている。

 数分歩くと群馬県に唯一現存の「藤塚一里塚」(左)が見られる。塚上の榎の大木は樹齢200年以上なのだとか。

 この先で街道は景色の良い碓氷川の堤防上の道。まもなく碓氷川に架けられた鼻高橋の前に出るが、欄干の上で達磨がじっとこちらを見つめている。・・・・・・行かねば。

 向かった先は「小林山達磨寺」(右)。何十段という階段を上った先の本堂で達磨が押し合いへしあいしているが、他には誰も居ない静かなたたずまい。時折り静寂を破って百舌の高鳴きが。
 


 鼻高橋まで戻り、歩道橋で国道18号を右に渡ると、すぐに「八幡八幡宮一の鳥居」(左)があり、そのはるか向こうに八幡宮の楼門がかすかに見える。


 旧中山道は、これから向かう板鼻宿の手前まで「国道18号」(右)と重なっているが、その向こうにうっすらと浅間山が望める。碓氷峠を越え、軽井沢に入ると目の前に見えることだろう。


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