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第12宿倉賀野宿くらがのじゅく
 江戸時代に入り中山道が整備されると、例幣使街道との追分の
宿場町として、さらには利根川支流・烏川の河岸への物資の集散地
としても賑わった倉賀野宿であった。

 路地を入ると今でも上州櫓造りの家が散見でき、昔の面影を
偲ぶことができる。

 

平成20年1015日    倉賀野神社で、「琴を奏でる宮内判官宗光」という珍しい彫刻が見られます。

 新町宿を出て烏川沿いに進んできた街道の先に渡船は無いので、ちょっと上流の「柳瀬橋」(左)を渡って倉賀野宿へと入って行く。

 橋を渡って数分、岩鼻町交差点を左に曲がる道が旧中山道であるが、右に曲がる道も旧中山道で、その先は柳瀬の渡船場であった。


 右に曲がって坂を下る途中の右奥にある御堂は「北向観音」(右)と呼ばれる子育観音。ひっそりとした御堂の中で、頬杖し微笑んでいるのは如意輪観音。

 交差点へ戻り先へ進むと、すぐの右側が「観音寺」(左)である。本堂左手の大木の横を進み墓地中ほどまで行くと岩鼻代官所初代代官・吉川栄左衛門貞寛の墓が見られる。


 観音寺の裏手一帯は寛政5年(1793)から幕末まで岩鼻代官所があった場所。広大な敷地の端にあった天神山周辺の「代官所跡」(右)は公園として開放されている。 

 街道に戻り数分歩くと
Y字路となるが、旧中山道は
左の細い道を入って行く。
 旧道に入るとさっそく、
見事に成長した赤マンマが
出迎えてくれた。
 ほどなく先ほど分かれた
道に合流するが、そこには
旧中山道の標識がある。
 交差点を渡った先の
ガソリンスタンド前には
旧中山道標柱が。
 GS先の高崎線跨線橋を
越え、しばらく歩くとまたまた
Y字路が。ここも左の細い
道が旧中山道。

 左に入った旧中山道はすぐに先ほどの道に合流するが、合流した先の右側に「閻魔堂」(左)が見える。 江戸時代は阿弥陀堂であったが、明治時代の建て替えで閻魔堂に代わってしまったのだとか。

 ここは中山道と例弊使街道との追分。閻魔堂の隣りに「追分常夜灯」(右)と道標がある。

 文化11年(1814)に建立された常夜灯には三百数十名の寄進者名が刻まれているが、相撲取りの雷電為右衛門の名前も見られる。 また 道標も兼ねており、正面に日光道、右側面には中山道の文字が。

 この辺りから倉賀野宿となり、趣のある家が何軒か見られるが、左側の路地を入った奥に「上州櫓造りの家」(左)が見える。養蚕農家を象徴する櫓造りも「探さなければ見つからない」というほど減ってしまった。

 再び街道に戻り4〜5分、中町交差点を左に曲がり共栄橋まで歩くと「倉賀野河岸跡碑」(右)がある。

 上信越地方と江戸との物資運搬の水陸中継点であった倉賀野河岸は、最盛期には舟問屋10軒、舟150余艘に達し、利根川水系では最大規模を誇っていたそうだ。

 中町交差点まで戻り、今度は旧中山道を横断して5〜6分先、養報寺まで足を延ばしてみることに。

 当寺には倉賀野城主金井淡路守が建立したという山門があったが、現在の山門は改築されたもの。しかし以前描かれていた「天井画」(左)が復元されており、その見事さにしばし見とれてしまう。

 山門を入ると、本堂前庭に境涯の俳人と呼ばれた「村上鬼城句碑」(右)が据えられている。
  小鳥この頃 音もさせずに 来て居りぬ   鬼城

 本堂の左手には鎌倉時代末期の造仏とされる五体の石仏が小屋の中に鎮座している。

 再び中町交差点まで戻り、旧中山道をちょっと先へ歩くとスーパーの駐車場脇に「本陣跡碑」(左)が、さらにその先の丁字路左側にある石塔は「立場跡碑」(左)。

 倉賀野宿には本陣一、脇本陣が二つ置かれていたが、そのうちの一つ 「須賀脇本陣跡」(右) が右写真である。建物は明治36年に再建されたものだが、右側の門は宿場時代のものだそうだ。

 建物の前には「脇本陣跡碑」(右)も。

 須賀脇本陣跡の道路反対側にはもう一軒の「脇本陣跡碑」(左)。おやっ、須賀脇本陣と同じデザインだ。

 須賀脇本陣跡の50mほど先に「高札場跡」(右)が復元されており高札場跡碑もある。

 その後ろの「樅の木」(右)には次のような伝説が。
 安政2年のこと、倉賀野宿に大火災が発生し宿場全部を焼き尽くすほどの勢い。ところが不思議なことに、この樅の木に天狗が現れ傍の1軒の家を必死で火災から守ったのだとか。

高札場跡のちょっと先の交差点を左に曲がり4〜5分、眼下に烏川を望む高台は倉賀野城址

 治承年間(1170年頃)、秩父三郎高俊がこの地に居館を構え倉賀野氏を名乗って以来400年、戦国騒乱の元亀元年(1570)に金井淡路守が城主となるが、秀吉との戦いの際、小田原で討ち死にし、城も、興亡の歴史を閉じたのであった。

 今は小公園の一角に「倉賀野城址碑」(左)がひっそりと立っている。

 交差点まで戻り、もう一度旧中山道を横断して5〜6分永泉寺まで足を延ばすと、墓地中ほどで「倉賀野城主・金井淡路守の墓」(右)を見ることができる。
 

街道に戻って3〜4分歩き、左へ曲がって「飯玉縁起」がある「倉賀野神社」(左下)へ。

 社殿前の小ぶりな「常夜灯」(左)に、「文久三年(1863)、三国屋内つね」と刻まれた文字が読める。倉賀野河岸が賑やかだったころ、飯盛女(めしもりおんな)つね が寄進したものだそうだ。


 境内の左端にある小さな祠は「北向道祖神」(右)。解説板によると、施主大島三右衛門が文化2年(1805)に建立したもの。倉賀野宿大火のとき延焼をくいとめた「火伏せの神」としても語り継がれている。
 「飯玉縁起」
 
 光仁天皇(771−780)の御代、地頭群馬太夫満行の末子八郎満胤は芸能・弓馬の道にすぐれ帝から目代の職をたまわった。
ところが兄たちは八郎を夜討ちにし鳥啄池の岩屋に押し込めてしまったのだった。3年後、八郎は大蛇となり兄たちとその妻子まで
食い殺し、さらには、その害は国中の人々にまで及ぶようになったため、帝はこれを憂え、年1度の生贄を許したのであった。
 やがて16歳の海津姫が贄番となったのだが、都から来た勅使、宮内判官宗光がこれを知り、海津姫とともに岩屋へ入って、
琴を弾き、観世音菩薩を唱名。これを知って大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、烏川の辺へ移り、「吾が名は飯玉」と託宣して
消えうせたのだとか。これを見た宗光が建てさせたのが「飯玉大明神」で、明治に入り近郷の諸社を合祀して倉賀野神社となった。

拝殿正面の向拝は「琴を奏でる宗光の彫刻」(右)という極めて珍しいもの。

 街道に戻って数分歩き街道際の安楽寺に寄り道を。 境内左手に珍しい形の「板碑」(左)がある。南北朝時代のものだという石塔婆は、写真では分かりずらいが将棋の駒型をしている。


 この先は街道をてくてくと高崎宿を目指すのだが、途中で思わぬ松並木に遭遇。まだ若木のため松並木の風情は少ないが、何十年後かには見応えのある並木になることだろう。

 松並木を右に見ながらしばらく歩くと左の家並み越しに「浅間山古墳」(左)が見えてきた。


 4世紀末から5世紀初頭に造られたというこの古墳は、全長171、5mという巨大なもの。主要部が発掘されていないため詳しいことが不明だということだが、どんな人物の墓だったのだろうか。

 浅間山古墳を見た後に目指す宿場は、城下町の高崎宿である。

 高崎宿に入る前にどうしても寄り道したい場所がある。 東海道を三条大橋まで歩かれた百武さんから 「中山道には歌枕の地が多いですよ」 というメール。調べたところ何ヵ所もありました。その最初が「佐野の舟橋」である。これはぜひ行かねば。

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