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第11宿新町宿しんまちじゅく
 上州・上野(かみつけ)(群馬県)に入って最初の新町宿は、中山道で
最も遅くできた宿場であったが、 これにより草津まで67次、 東海道の
草津宿・大津宿を加えると京都までの中山道69次が成立。

 新町
(宿駅開設のため落合村と苗木村が合併)を通る道筋は加賀・前田藩が開拓したと云われている。

  

平成20年6月27日   埼玉県東松山で開催される歩け歩けのスリーデーマーチ、日本での発祥地は新町でした。

 「神流川橋」(左下)を渡るといよいよ上野国。江戸時代は渡しであったが、出水毎に川筋が変わってしまうため旅人泣かせの川であった。

 橋の袂の説明プレートによると、文化12年(1815)、戸谷半兵衛なる人物が川の両岸に灯籠を建立し灯を燈したのだそうだ。いつの頃からか見透灯籠と呼ばれるようになったのが大光寺(本庄宿最後)で見た燈籠である。

 このあたりは、織田信長が本能寺で倒れた直後に、関東管領の滝川一益と小田原北条氏が歴史上に残る大合戦を行った地。

 橋の少し先に「古戦場跡碑」(右)が建てられている。両軍合わせて6万余が神流川原で激突、3千人以上が戦死したという大激戦であった。

 数分歩くと旧中山道は国道から分かれて右に入って行くが、その三角地帯に「新町宿常夜灯」(左)と「中山道新町宿」と刻まれた石碑が建てられており、この先から群馬県最初の宿場である新町宿が始まる。

 かかあ天下で有名な上州だが町並みに特に変わった様子は無い。交差点を渡った先の八坂神社境内にあるのは「芭蕉句碑」(右)。
 「 傘におしわけ見たる柳かな   翁 」

 昔、このあたりに柳の大木と茶屋があったそうで、地元の俳人が柳にちなむ芭蕉の句を選び天保10年(1839)頃建てた句碑なのだとか。

 数分歩いて右に入った奥に諏訪神社の鳥居が見える。この鳥居は新しいが、境内裏手に「元禄の鳥居」(左)と云われる初期の鳥居が半分埋められた状態で保存されている。笠木の曲線がなんとも美しい。


 街道に戻りさらに数分、街道際の笠原氏宅庭に 「高札場跡標柱」(右) が建てられているが、この場所はかつての落合村と苗木村の境界だった場所。江戸時代の役人も気を使っていますなー。

 数分先の公園奥に「明治天皇行在所」(左)が現存している。明治11年からの北陸・東海地域御巡幸の際宿泊されたそうだ。本陣以外に宿泊されたのが珍しいが、現存しているとはさらに珍しい。

 行在所奥の「於菊稲荷神社」(右)に次のような伝説が。

 大黒屋の娼妓於菊は大変な美貌と気立ての良さで新町随一の売れっ子。ところが病に倒れると大黒屋からはのけ者に。村人が稲荷神社の小屋で看病したが、ある日、お菊の枕元に稲荷の霊が現れ奇跡的に全快。感謝した於菊は稲荷神社の巫女となったのだとか。以来 於菊稲荷神社 と呼ばれるようになり神社はますます隆盛を極めたそうだ。

  街道に戻りちょっと歩くと左側に旅籠高瀬屋跡があるが(今は駐車場)、その前にある立派な石碑は「小林一茶文学碑」(左下)。

 高瀬屋には雨で川留めとなった小林一茶が宿泊しているのだが、この碑に一茶の「七番日記」の一部が刻まれている。要約すると
 「雨の疲れにすやすや寝ていたところ、午前4時頃に提灯を持った男に起こされ、かんな川に灯籠を建てるので寄付をお願いしたい といってきた。断ったが結局12文払ってしまった・・・・」
そして一句  「 手枕や 小言いうても 来る蛍 」 も刻まれている。

 数分歩き宿場の終わりごろまで来ると民家の塀際に寂しそうにポツンと立っているのは「小林本陣跡標柱」(右)。向かい側に久保本陣があったそうだが、今はその痕跡は見当たらない。

 本陣跡のすぐ先が温井川に架かる弁天橋だがその手前左下に弁天様が祀られている。鳥居の先にごくごく小さな祠があるだけだが、境内に「芭蕉句碑」(左)があった。

 「むすぶより はや歯にひびく 泉かな    はせを」
「近くの泉が旅人の喉をうるおしたことをよんだ句」と解説されている。

 道路反対側の石碑は「スリーデーマーチ発祥の地碑」(右)である。毎年、埼玉県東松山で開催されているが、初回と第2回がここで開催されたのだとか。

 弁天橋を渡ると旧中山道は県道と別れ右側の道に入っていく。

 旧街道らしい静かな道を7〜8分歩くと、屋根の上にもう一つ小さな 屋根が乗った民家が目に飛び込んできた。 「上州櫓造り」(左) と呼ばれる構造の屋根だが、最近は滅多に見られない貴重なもの。

 数分歩くと白壁の美しい塀が屋敷を囲んでいる。ここは江戸時代の豪農「川端家」(右)で、江戸時代から明治〜昭和初期にかけて建てられた多数の建物は国登録有形文化財となっている。

 今でも生活の場として使われているが、制約が多いのだろうな。

 中山道は、関越自動車道の高架下を過ぎると「烏川堤のサイクリングロード」(左)へと上がって行く。といっても江戸時代には無かった堤なので、どの辺りが旧街道であるかは分からないが、今は景色の良いこの道を行くことに。


 サイクリングロードに入ると彼方にこんもりとした森が見えるが、ここは「お伊勢の森」(右)と呼ばれ小さな社がある。かつて、この地は伊勢島村と言い、伊勢大神宮があった場所。今は堤下の憩いの場所。

 旧街道がはっきりしないが、スーパー千湯(銭湯)が見えたら左に下ると歩道際に「中山道道標」(左)が建てられている。うん、間違いない。その先を地元の人に聞くと「バス停中島の先を右に曲がってごらん」という。大丈夫かなー?

 不安を抱えながら右に曲がると烏川堤手前に「旧中山道」(右)の道標が。ほっとしたー。

 この先の旧中山道は河原で消滅している為「柳瀬橋」(右)を渡って倉賀野宿へ。


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