日本橋から本郷界隈へ
 「お江戸日本橋七つ立ち」はちょいと早すぎる。
道中は長い、のんびりと旅立つことにしよう。
目指すは135里彼方の 京都・三条大橋。

 最初の宿場である板橋宿まで2里半、大都会の真っ只中にも、
まだまだ江戸時代が残っている。

  

平成20年3月3日    中山道のスタートは、日本橋の真ん中にある「日本国道路元標」からだ。

 道路網の整備に取り掛かった徳川家康は慶長8年(1603)、元の神田川に橋を架けたのが日本橋のスタート。幾多の変遷を経て明治44年(1911)に石造りに架け替えられたのが現在の「日本橋」(左)である。

 ところで、「日本橋」名の由来であるが、諸説あるが、故池田弥三郎氏によると「最初は二本の丸太橋」だったので「二本橋」なのだそうだ。

 旅立ちはちょっとこだわって、橋の真ん中にある 「日本国道路元標」(右) に挨拶した上で出発することに。

 橋の北詰西側の植え込みの中に「明治44年(1911)の道路元標」(左)が展示されている。うーん、なかなか立派。これが橋の真ん中にあったら、それこそ「全ての道路の中心点」という存在感があったのだが。

 北詰め東側には「日本橋魚市場発祥の地碑」(右)が建てられている。ここから江戸橋までの間が魚河岸で、その賑わいは大変なもの。一日に千両もの取引きがあったそうだ。

 関東大震災後に築地へ移転となってしまったが、300年の歴史を刻んだ地である。

 いよいよ旅立ち。交差点を渡るとさっそく「元文2年(1737)創業の八木長」(左)が目に入る。日本橋周辺は江戸時代創業の老舗が多い。
 
甲州街道の旅では老舗巡りの後に旅立ったが、今回はすぐに出発だ。


 八木長横の 按針通り を行くと、 「三浦按針邸跡碑」(右)を見ることができる。三浦按針(ウイリアム・アダムス)が家康の外交顧問であった時代、ここに居を与えられ江戸城に出仕していた場所である。

 街道に戻り三越前交差点を渡った所で思わぬ物に遭遇。ビルの建設工事が行われているのだが(平成20年3月時点)、その周囲塀に江戸時代からの日本橋の浮世絵と写真が歴史に沿って展示されている。

 「天保4〜5年
(1833〜34)頃の日本橋」(左)を見ると、なんと賑やかなことか。その向こうには今でも通用するような立派な魚河岸の建物が見える。

 「昭和28年(1953)の日本橋」(右)は広々とした開放感がある。
こんな素晴らしい日本橋に蓋をしてしまったのは何処のどいつだ。
 明治44年の道路元標が写っています。黄矢印

 長崎屋跡説明板今川橋説明板を見て須田町交差点を渡ると国道17号は右に曲がって行く。旧中山道は真っ直ぐ進んでいくのだが、
ここでちょっと寄り道を。この辺りには戦災を免れた昭和初期の家がビルの谷間で頑張っている。


 須田町交差点を渡って左に1分ほど歩くと手打ちソバの 「まつや」。 まつやの前を右に曲がり路地を入るとアンコウ鍋が売りの 「いせ源」
いせ源の対面は女性に大人気の甘味処 「竹邑」。路地を入った先には昼時のサラリーマンに人気の「神田やぶそば」がある。その他にも何軒か昭和初期の建物が見られるが、ちょっと懐かしい風景である。  
コメント:「神田やぶそば」は2013年2月の火災で焼失し、今はありません。


 街道に戻り先へ行くと突き当たりが中央線の高架で、かつての万世橋駅跡である。高架に沿って左に曲がると、江戸時代に筋違御門と筋違橋があった場所に「説明板」(左)が建てられている。

 その先の外堀通りを右に曲がり昌平橋を渡った辺りが「神田旅籠町」(右)と呼ばれた場所で、ここには真新しい説明板が。

 旅籠町は「八百屋お七」の大火で類焼し、以降は米、炭、酒などを扱う問屋街へと変わっていったそうだ。

 中山道はこの先の神田明神下交差点を左に曲がって昌平坂を上ってゆく。

 坂の途中、左に下る道があるがここも「昌平坂」(左)。江戸時代、この右手に昌平坂学問所があったことから周囲三つの坂をひとしく「昌平坂」と呼ぶようになったのだそうだ。

 この坂を下って右に曲がると湯島聖堂に入ることができる。

 将軍綱吉が建てた孔子廟「大成殿」(右)と、付属する建物を総称して「湯島聖堂」と呼んでいるが、後に幕府直轄の「昌平坂学問所」となった場所である。
注:現在の大成殿は昭和10年に再建された建物である。

 街道に戻ると、右手に天平2年(730)創建という長い歴史を持つ神田明神の「隋神門」(左)が見える。セイヤ ソイヤの掛け声で町内の神輿100基が宮入する神田祭りは壮観の一言。隔年の5月に行われる。


 神田明神へ来たら銭形親分に挨拶せねばなるまい。社殿右奥に「銭形平次」(右)と刻まれた石碑が建てられている。隣りには「がらっ八」(右)の碑も。

 神田明神を出たら是非寄りたい場所が弘化3年(1846)創業の「甘酒の天野屋」さん。地下6mの土室(つちむろ)で作られる甘酒は絶品。

 再び街道に戻り、次の交差点でちょっと寄り道を。交差点を渡って左に曲がり聖橋まで来ると橋の下に神田川が流れているが、ここは「仙台堀」(右)と呼ばれる掘割。

 かつて、洪水で悩まされた神田川の流路を変えるために、仙台藩が莫大な資金を投じて掘り下げた人工の川が今の御茶ノ水辺りの神田川である。

 東海道沿いには芭蕉句碑が多かったが、中山道でも結構多くの芭蕉句碑が見られる。まずは神田明神から7〜8分歩き、左折して5分ほどの
所にある昌清寺。春日の局との確執に破れたお清の方が開基したという寺院である。

 駐車場脇の「芭蕉句碑」(左)には次の句が刻まれている。
 「桜狩り きとくや 日々に5里6里   芭蕉」 健脚ですなー。

 本郷3丁目までくると洋品店の柱に「本郷も かねやすまでは 江戸の内」(右)とある。この先は田舎だよ、と言っているようなものだが。

 「かねやす」は享保年間(1716〜1735)からの老舗で、兼康祐悦なる口中医師が歯磨き粉を売り出し大評判となったことが始まり。今は洋品店に変わっている。

 「かねやす」前の交差点を渡ると真っ赤な提灯が下がった山門の奥に「本郷薬師」(左)のお堂がある。ここに真光寺があったころは大変な賑わいだったそうだが、いまは薬師堂だけがひっそりと。


 山門の先すぐの本郷通り車道際に建てられた「別れの橋跡説明板」(右)に、「むかし太田道灌の領地の境目なりし・・・・・・その頃追放の者など此処より放せしと・・・・・・」 罪人を追放した場所なんですね。

 別れの橋跡から4〜5分、通称東大赤門と呼ばれる「旧加賀屋敷御守殿門」(左)がある。11代将軍家斉の子溶姫(やすひめ)が前田家に嫁入りしたとき建てられた赤門は、火災や関東大震災を乗り越えた貴重な遺構である。


 「ふと目を上げると、左手の丘の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で・・・・・・」(三四郎より)  赤門をくぐって向かった先は「三四郎池」(右)。静寂の中に女が二人・・・ならぬ賑やかな熟年女性4〜5人。あ〜あっ。

 街道に戻り数分歩くと「本郷追分」(左)である。ここで中山道は左に曲がり、直進が岩槻街道、通称「日光御成道」である。角に見える酒店の「高崎屋」(左)は宝暦元年(1751)創業だとか。


 ここは日本橋からちょうど一里。中山道最初の追分一里塚があった場所で、高崎屋の壁面に「追分一里塚跡説明板」(右)が掲げられている。残念ながら石碑は無い。

 追分から10分ほどの白山1丁目交差点を左に曲がり、坂を下って行くと円乗寺という寺院がある。

 東海道・鈴が森/島田宿/御成道・吉祥寺の三ヶ所で目にした「八百屋お七」だが、その「於七之墓」(左)が円乗寺にあった。

 「八百屋お七」に関係する場所がもう一ヶ所。白山1丁目交差点から数分先の大円寺「ほうろく地蔵」(右)が鎮座しているが、この地蔵様もお七に関係があるそうだ。

 火あぶりの刑を受けた 「お七」 を供養するため建立された地蔵様。お七の罪業を救うため熱した焙烙を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けているのだとか。
律儀な地蔵様だなー。

 まもなく中山道最初の宿場である「板橋宿」だが、その手前が「おばあさんの竹下通り」。 元気なおばあさんがいっぱい居るそうだ。

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