第8宿熊谷宿くまがやじゅく
 中山道8番目の熊谷宿は寛政年間になると家屋千軒、人口3000人を
超える大きな宿場へと発展していった。 残念ながら昭和20年
(1945)
空襲で町の大半が焼けてしまい往時の面影が少なくなっている。 

 『
デパートの中の 中山道を歩く』 と言う貴重な体験のできる宿場である。

 

平成20年5月11日    えっ、お地蔵さんが 「喋った」 !

 吹上間宿を通り、高崎線を越えて住宅街の中を歩いていくと熊谷堤に突き当たるが、そこに「権八地蔵」(左)と呼ばれる地蔵堂がある。

 権八地蔵は鴻巣宿の勝願寺に一体、この先の熊谷堤下にも一体、都合三体あり、それぞれ「権八」を名乗っている。実は平井権八なる実在の人物がこの権八地蔵に係わっているが、その話は後ほど。

 中山道は地蔵堂の横を通って熊谷堤に上がり、しばらくは堤の上を歩いて行くのだが、日陰が全く無い。夏は厳しい街道歩きだったろう。

「久下(くげ)の長土手」と呼ばれた熊谷堤をかれこれ15分。土手の中腹に「決壊の跡碑」(左下)が建てられている。

 昭和22年(1947)のカスリーン台風で熊谷堤が決壊。荒川から流れ出た洪水は行田、鴻巣、桶川を襲い、同じく決壊した利根川の水と岩槻辺りで合流、東京の下町まで達したそうだ。恐ろしや河川の氾濫。


 決壊の跡碑から数分先の土手下に小さな稲荷神社が見えるが、ここは「久下(くげ)一里塚」があった場所。かつて土手の中腹が中山道であったそうだが、この辺りは今も土手の中腹が道路。

 街道はさらに15分ほど熊谷堤を歩いた後、右に下り久下集落へと入って行く。

 小学校の先に「久下神社」(左)がひっそりと鎮座しているが歴史は古い。 源頼朝の前で熊谷直実と領地争いをした久下直光が創建した三島神社が出発で、後に周辺の神社を合祀して久下神社と改名。


 静かな街道を十数分歩くと民家の門横に「中山道碑」(右)が据えられている。「この街道、旧中山道  屋号・大銀治屋」と刻まれているので個人が建てたものらしい。

 ここで車道は右に曲がっていくのだが中山道は熊谷堤に向かって真っ直ぐである。

 土手下まで歩くと「権八地蔵」(左)、またの名を「物言い地蔵」と呼ばれる地蔵堂がある。この地蔵さん、お喋りをしたのだそうだ。

 時は宝永年間(1673〜1680)、平井権八なる人物が辻斬りを。ふっと振り向くと地蔵様が。「このことは黙っていてくれ」というと、なんと地蔵さんが「我は言わぬが、汝こそ言うなよ」と喋ったのだとか。  平井権八は実在の人物で、東海道・鈴ケ森の刑場で処刑されている。

 この先で一旦土手上に上がり、再び土手を下ると「みかりや跡」(右)と記された看板が目に入る。みかりや?・・・ 「御狩屋」と書けば納得。

 みかりや跡から5〜6分、久下直光が開基した東竹院の境内に「達磨石」(左)なるものがある。

 三百数十年前、秩父山中から筏に乗せて運ぶ途中で荒川に転落。 大正14年 偶然にも東竹院前で発見されたのだとか。


 この先はてくてくと街道を20分、公園の入口に「八丁の一里塚跡説明板」(右)が立てられている。この一里塚は日本橋から16番目、64kmの地点 。  まもなくJR高崎線の踏み切りである。

 高崎線の踏み切りを渡り5〜6分歩くと国道17号に合流。この先しばらくはR17が中山道であるが、ちょっと寄り道を。

 「平敦盛を討った武将」と言えば熊谷直実。その「熊谷直実像」(左)がJR熊谷駅前にあるので勇姿を見ておこうと寄り道をした次第。


 街道に戻り歩道橋の上から「現代の中山道」(右)を見ると、ビルに囲まれた町並みが続き江戸時代が想像できない。それでも階段を下りて歩き始めるとビルの間にポツポツと格子戸がはめ込まれた民家が。

 しばらく国道を歩くと、右側の鳥居奥に平安時代から続くという高城神社が見える。

 境内に入ると右隅に高さ3m近くもある青銅製の「常夜灯」(左)がある。これは紺屋仲間が天保12年(1841)に奉納したもので、奉納者の中には江戸や京都の紺屋の名前も見られるという。


 社殿前の大木は樹齢800年以上と云われる「御神木の欅」(右)。
うーん凄い。でも表示が無い。居合わせた神主さんに尋ねると、「実は・・・・正確な樹齢が分からないのです。だから表示できないのです」
いやー、律儀な神社だ。

ここから平成20年5月21日

 街道に戻り、次の信号で左側に移ると「札の辻跡碑」(左)が植木の中に見える。解説版によると、当時の高札は高さ約3メートル、長さ約5メートルというからかなり大きい。ワープロの官報が貼られた現代の高札?とは大違いだ。


 札の辻から数分歩くと「本陣跡碑」(右)が建てられている。この本陣も大きかったようで、「間口14間(約27メートル)、奥行きは星川にまで至り」と記されているので100メートル以上。本陣のなかでも屈指の大きさだったようだ。

 次の交差点を左に入り数分歩くと「星渓園」(左)に行かれる。慶応年間から明治初期にかけて作られた回遊式庭園で、池を中心にした散策路はなかなか風情がある。

 交差点まで戻ると、彼方に見えるのは「熊谷寺(ゆうこくじ)山門」(右)。

 残念ながら中に入ることは出来ないが、この地は熊谷直実が育った地。 後年、心ならずも平敦盛を討ったことに無情を感じ、出家して草庵を結んだのもこの地であったという。

 再び交差点に戻り、貴重な体験のできる百貨店の中の中山道」を歩くことに。

  交差点際の「八木橋百貨店は旧中山道の上に建てられたのだが、百貨店が粋なはからいをしてくれていた。
 交差点際に「旧中山道跡碑」(左)が据えられているが、ここは旧中山道が通っていた場所。
 碑の前から百貨店に入ると正面西入口に向かって通路があるが「ここも旧中山道」(中左)。化粧品売場前というのがちょっと照れくさい。
 百貨店の中の旧中山道を通って西入口から外に出ると、ここにも「旧中山道跡碑」(中右)が建てられている。
 その向こうにカラー舗装された「旧中山道」(右)が続いている。

 百貨店の中の中山道を出て、旧街道をしばらく歩き再び国道17号に合流。

 4〜5分歩き交差点を左に入ると、公園の中に3基の「秩父道道標」(左)と説明碑が建てられている。元々は中山道との十字路にあった道標。室町時代から始まった観音信仰の巡礼者の為のものであった。

 3基はそれぞれ年代が違うが、刻まれている文字は「ちゝぶ道志まぶへ十一リ」「秩父観音巡礼道」「寶登山道」。

 その少し先で旧中山道は国道を離れ左に入って行く。すぐに欅の大木が見えるが、ここは17里目の「新島一里塚(植木一里塚)(右)で右側が現存している。

 新島一里塚から数分歩くと「忍(おし)領石標」(左)を見ることができる。徳川御三家に次ぐ親藩で
あった忍藩が安永9年(1780)に16ヶ所に建てた藩境の1本で、明治以降、長らく行方不明だったが
昭和14年に発見され、この地に再建されたものだそうだ。
 石標を見た後しばらく歩いて国道17号を横断し、地蔵堂や庚申様を眺め1時間少々。国済寺町に入ったが、この先は深谷宿である。

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