第7宿鴻巣宿こうのすじゅく
 元々は、本宿村(現 北本市)にあった宿駅を慶長7年(1602)に現在地へ
移して鴻巣宿と改称。旅籠は58軒あったというから比較的大きな宿場で
あった。

 また江戸時代中期には、ひな人形の特産地としてもゆるぎない地位を
確立しており、今でも街道沿いに人形店が軒を並べている。

  

平成20年4月9日  「なんじゃもんじゃ」とはなんじゃ。 珍しやヒトツバタゴの木が満開でした。

 桶川宿を出ると街道は見渡す限り真っ直ぐ。変化の少ない坦々とした街道を40〜50分。

 交差点向こう側に「北本宿碑」(左)と説明板が見える。 かつて宿駅として賑わっていたが、 江戸時代初期に宿駅が鴻巣に移され、 その後は立場として旅人の疲れを癒した場所だ。

 北本宿碑から7〜8分、右奥の多聞にそびえているのは「ムクロジの大木」(右)。

 落下していた「ムクロジの実」(右)を4個ほど持ち帰ったのだが、茶色の殻を剥くと黒い玉が現れる。今は懐かしい羽根突きの黒玉がこれである。

 街道は多聞寺の先、JR北本駅あたりから左に曲がっているのだがJR高崎線の工事で消滅。ところが、一里塚が運良く残ったのであった。

  北本駅先の踏み切りを渡り、 線路沿いに数分歩くと左側の畑の中に 「馬室原一里塚」(左) の左側が現存している。 左側だけであるが、 久々の現存一里塚であった。

 この先はしばらく線路沿いを歩き、突き当たったら 第二中仙道踏切 を渡って県道に戻り5〜6分、交差点の向こう側に「鴻巣宿加宿上谷新田」(右)と刻まれた石碑が建てられている。

 現在の町名は人形町となっているが、ここから鴻巣宿となる。

 鴻巣宿に入ると「人形店が軒を並べている」というほどではないが、街道沿いに何軒か見える。しばらく歩き、左に入ると
徳川家康ゆかりの勝願寺という古刹があるのでちょっと寄り道を。

 山門を入った奥の左側に「芭蕉忌千句塚」(左)が。
  「けふはかり 人も年よれ 初時雨 」
隣りの石碑は千句塚を建立した横田柳几の句碑で
  「夕暮れを こらえこらえて 初時雨    柳几」


 その奥に見える「墓石群」(右)は、一番右が本田忠勝の娘で家康の養女となり、真田信之の妻となった真田小松姫の墓石
 中の2基は 「真田信重(信之の三男)とその室の墓石」、 左は豊臣秀吉の家臣で、その後家康に仕えた仙石秀久の墓石である。
 

ここから平成20年5月11日

 鴻巣宿には本陣・脇本陣が1軒づつ、旅籠は60軒近くあったということだが、勝願寺を出て街道に戻っても往時の面影はほとんど感じられない。

 4〜5分歩くと「鴻巣本陣跡碑」(左)がポツンと立っている。その手前を左に入ると仲町会館建設記念碑が建てられているが、ここに番屋や本陣のことなどが記されており、僅かに当時を知ることができる。

 ところで「歩道の敷石」(右)にもなっている地名の由来だが、
 「その昔この地に神の樹といわれる大木があり、供え物をして拝まないと災いが起こりました。あるとき、この樹に鴻が巣をつくり雛を育てていると大蛇が現れ雛を飲み込みそうに。と、母鳥が鋭いくちばしで大蛇を一撃。それからというもの、神の樹の災いも無くなったのだとか」
以来、この地を「鴻巣」と呼ぶようになったのだそうだ。

 高崎線鴻巣駅入口を過ぎて数分の右側に「鴻神社」(左下)がある。

 元々は雷電神社があった場所。明治6年に氷川社・熊野社を合祀して鴻三社(後の鴻神社)となったのだが、神社前のバス停はいまだに雷電神社前。こだわりますなー。

 鴻神社で思わぬものに遭遇。 「なんじゃもんじゃの木」(右)がまさに満開。 

 地面も雪が降ったように真っ白である。明治神宮から下賜されたのだそうだが、もとは江戸・青山の六道の辻にあったヒトツバタゴ。名前が分からなかったのでいつのまにか「なんじゃもんじゃの木」に。

 鴻神社の少し先で道は二つに分かれるが、中山道は左に入って行く。途中箕田観音堂などを見て坦々とした道を30〜40分。ほどなく箕田源氏発祥の地といわれる箕田(みた)集落に入る。(コメント:嵯峨天皇の皇子・源融(とおる)の孫になる仕(つかう)がこの地に住み箕田源氏を名乗る)

 ちょっと休憩に立ち寄った神社が氷川八幡神社。境内に箕田源氏の由来を記した「箕田碑」(左)がある。碑の裏側に幾つかの歌と句が刻まれているが、その中に芭蕉の句も刻まれていた。

 「蝶の飛はかり埜中の日かけかな   芭蕉翁 」

 氷川八幡の先で中宿橋を渡り数分歩くと「箕田の追分」(右)に到着。ここには「中山道碑」(右)や説明板が建てられており、左側には箕田地蔵堂もある。

追分から先も坦々とした道が続き、やがて畑などが広がるのどかな街道になる。

 交差点際に「前砂村碑」(左)が建てられており「池田英泉の鴻巣・吹上富士はこのあたりで描かれた」と刻まれている。しかし、目の前に見えるのは大きな老人介護施設。時代の流れですね。




 その先数分のところに「前砂一里塚跡標柱」(右)があるのだが説明板共々、文字がかすれてちょっと読みずらい。

 しばらく歩きJR高崎線の踏み切りを渡り左に曲がると間の宿の「吹上宿」にはいるのだが、曲がった先に「妙徳地蔵堂」(左下)が見える。

 この地蔵様には悲しい伝説が。
 130有余年前のこと、不幸にも眼病を患った娘さんが観世音菩薩を背負い八十八社参りに。満願の日に眼病が全快。喜び家路を急いだが途中で盗賊に襲われ帰らぬ命に。無念のあまり大蛇になって恨みをはらすのだが、法華経に出会い成仏。妙徳地蔵尊として祭ったのだとか。


 吹上宿は間の宿であるが「お休み本陣」や「立場」があり賑わった宿場であった。明治天皇も本陣で休憩されており、宿場中ほどの右奥(香川の看板手前)「明治天皇御駐輦址碑」(右)が建てられている。

 中山道はこの先の本町交差点で左に曲り、いぼ地蔵吹上神社前を通って住宅街の中を進んで行く。しばらく歩くと陸橋の下にあったのは「中山道間の宿碑」(左)と説明板。

 中山道はここで分断。この先はJR高崎線の線路となってしまうので陸橋で向こう側に渡るのだが、「陸橋上から見ると」(右)中山道のつながりが良く分かる。

 陸橋を渡って再び中山道に入り、住宅街の中を通って権八地蔵堂の前から荒川の土手に上ると、しばらくは土手上の道が中山道。





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