第4宿大宮宿おおみやじゅく
 大宮宿は、古くは氷川神社の門前町であったが、寛永年間に新しい
街づくりが行われ宿場町が形成された。

 最盛期には本陣1軒、脇本陣9軒と大変賑わっていたのだが、今の
大宮には宿場時代の史跡がほとんど残されておらず、表示も少ない為
江戸時代を探すことは難しい。

 

平成20年3月29日   ありそうで なさそうな 「お女郎地蔵伝説」 でもやはり本当だったような。

 浦和宿を出た後は坦々とした道が続き、「半里塚の欅」あたりから さいたま新都心 の高層ビルが。 大宮宿が近い。
冒頭で「大宮宿には史跡がほとんど残されていない」と記したが丹念に探すと幾つかの江戸時代が見えてくる。

 三菱マテリアルの工場前を通り過ぎると高台橋跡「火の玉不動とお女郎地蔵」(左)が収められた小さな祠がある。祠の中に伝説が記されているので、ちょっと長くなるが要約を。


お女郎地蔵伝説 
 江戸時代、大宮宿に柳屋という旅籠があり、千鳥と都鳥という姉妹が旅人の相手をしていた。美しい姉妹は街道筋の評判となったが、宿の材木屋の若旦那と千鳥が恋仲となり、末は夫婦にと堅い約束。そこに割って入ったのが悪名高い神道徳次郎という大盗賊。何が何でも千鳥を身請けするとせまり、ついに宿に火をつけると凄む始末。 これを知った千鳥は思い余って高台橋から身を投げてしまったのだとか。 哀れに思った近くの人が女郎地蔵を建立したのだそうだ。


火の玉不動伝説
 その頃、高台橋付近で火の玉が見られたが、人々は高台橋から身投げした遊女千鳥の霊魂だとか、傍らの不動明王の悪戯だとも噂しあった。 ある夜、一人の男が松の陰に潜んでいると、谷間から火の玉が。男が火の玉に切りつけると「ギャー」と言う声がしてそこには物凄い形相の男が。 その男は 「俺は不動明王だ。お前に剣を切り落とされた」 と言って消えてしまった。 この話を聞いた村人が翌日見にゆくと、怖い顔をした不動明王は剣を持っていなかったのだとか。以来、火の玉不動 と呼んでいるそうだ。

 ちなみに、「お女郎地蔵伝説」に登場した神道徳次郎は寛政元年(1789)高台橋傍らの刑場の露と消えた、と伝えられている。

 さいたま新都心駅を過ぎると右側に「氷川神社一の鳥居」(左下)があり、神社に通じる参道がはるか彼方まで真っ直ぐ伸びている。

 かつて中山道は神社の参道を通っていたが、神社の参道に牛馬が通るのは恐れ多いと、寛永年間に新しい道路が作られ街づくりが行われたのが、後の中山道。

 鳥居を右に見ながら街道を進み、吉敷町交差点までくると、交差点向こうに悲しい歴史を持つ小さいな小さな「安藤橋碑」(右)がポツンと立っている。

 安永4年(1775)、大宮宿に85軒が焼けるという大火が発生。このとき安藤弾正が幕府の御用金を施して人々を救ったのだが、事前の許可を得なかったことに責任を取って切腹。この徳を永久に伝えるため吉敷町にあった橋を「安藤橋」と名付けたのだそうだ。

 吉敷町交差点の先、左側に立派な屋敷門が見える。「加賀前田家の屋敷門」(左)と云われるこの門は、前田家江戸屋敷から貰い受けたものだそうだ。多数のポスターが美観を損ねているのが残念。

 再び右側に移り、郵便ポスト前の路地を入ると塩が奉納された「塩地蔵尊」(右)が鎮座している。このお地蔵様には塩にまつわる言い伝えがある。
 二人の娘を連れた浪人が病に倒れ、日一日と重くなっていく。 ある晩、夢枕に現れた地蔵が塩断ちするよう告げたのだった。早速娘二人が塩断ちしたところ父の病が全快。そこで、沢山の塩を地蔵様に奉納し、それからは幸せに暮らしたんだとさ。

 ところで、東海道・品川宿先に「涙橋」があり、日光街道・千住宿手前にも「泪橋」があったが、大宮宿にも「涙橋」があった。

 塩地蔵から5〜6分歩いて第四銀行手前を右に入ると「涙橋碑」(左)が見られる。高台橋近くにあった刑場へ送られる罪人と涙の別れとなった橋だったので、いつの頃からか涙橋と呼ばれるようになったそうだ。

 この辺りから脇本陣や旅籠が軒を連ねていた宿場中心街。

 大宮宿には本陣1軒、脇本陣が9軒もあったのだが、「内倉新右衛門本陣」があった場所だけが「本陣跡」(右)として表示されている。高島屋先の交差点を過ぎて、次の路地を左に入ると説明板が見られる。

 内倉本陣は最初の本陣で、その後、少し先の山崎本陣に変わっている。また紀州鷹場本陣(北澤本陣)が現高島屋の場所にあった。そのほかに9軒の脇本陣があったのだが、問屋場、高札場などを含めた宿場時代の案内表示が全く無いため、場所を確認することはできない。

 大宮に来て氷川神社を素通りしたら罰が当たってしまう。少し戻って高島屋前の交差点を左に曲がり(吉敷町方面から来た場合は右折)参道へ向かうことに。

 「氷川神社参道」(左)に入ると、なんと参拝客がぞくぞくと神社に向かっているではないか。

 三ノ鳥居をくぐると神橋の向こうに朱鮮やかな「楼門」(右)が見えるが、参拝客が一層多くなっている。東京の明治神宮でも正月以外はこれだけの参拝客はいない。氷川神社の人気は凄ごすぎる。

 参拝を済ませた人達はぞくぞくと神社裏の「大宮公園」(左)に向かっているではないか。なるほど納得!空が見えないほどの桜花の天井。
花見で一杯 といきたいところだが、まだ先は長い。ぐっと我慢。

 公園の中に「青木昆陽の碑」(右)が建てられている。甘藷先生と言われた青木昆陽が何故ここに? 傍らの説明板を読むと 「甘藷が県の特産品となったので、・・・・昭和4年、記念碑建設」 とある。

 昭和に入ってから記念碑とは、青木昆陽もとまどっていることだろう。

 氷川神社にお参りし、花見もできた。次に目指すは上尾宿だ。

 JR宇都宮線の下をくぐり、5〜6分歩いた先のファミレス駐車場入口に、安政7年(1860)に建てられたという「大山道道標」(左)がある。神奈川県の大山まで歩いたということだが、江戸時代の人は健脚だ。

 さらに20分ほど歩くと左側のちょっと奥まったところに「東大成の庚申塔」(右)がある。元禄10年(1697)に建てられたという庚申様は地元の人達から「耳の神さん、目の神さん」と大事にされているそうだ。

 上越新幹線のガード下を通り、JR宮原駅入口を過ぎると、バス停の足元に「天神橋と刻まれた欄干」(左)が横たわっている。かつて、小川が流れており、昭和初期まで橋が架かっていた場所である。


 天神橋の少し先右側の社は「賀茂神社」(右)であるが、境内に「鴨大明神」(右)と刻まれた手水鉢がある。 由緒には京都上加茂神社を勧請 とあるが、鴨大明神の記載は見当たらない。

 まもなく大宮市から上尾市に入る。上尾宿では鬼瓦と鐘軌様がにらめっこしていたということだが、今でもにらめっこしているだろうか。


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