第2宿蕨 宿わらびじゅく
 蕨宿(わらびじゅく)は日本橋から4里28町の距離であるが、京都側から
来た場合は戸田の渡し手前にあることから、荒川増水時の川止めに備え
比較的大きな宿場へと発展していった。

  しかし明治以降は鉄道から遠かったことで次第に賑わいを失い、今は
静かな町並みが続く旧街道となっている。

 

平成20年3月21日  「蕨神社」ではなく 「和楽備神社」 いいね〜

 板橋宿を出てかれこれ1時間、荒川に架かる戸田橋を渡ると、渓斎英泉の「戸田の渡し」(左)が出迎えてくれる。荒川には、江戸防衛のため明治に入るまで橋は架けられていなかった。

 矢印に従い右に歩くと「渡船場跡碑」(右)が建てられている。ここは渡船場だけではなく船運の一大拠点としても発展したそうだが、明治8年(1785)に橋が架けられ、渡しの長い歴史も終了。

 さらに先に行くと、水神宮がある。

 はるか彼方まで真っ直ぐ続く国道に見どころは無いので、その先の蕨宿を思いながらてくてくと約30分。ようやく宿場碑が見えてきた。

 国道と旧中山道が分かれる三角地帯に「中山道蕨(わらび)宿」(左)と刻まれた石碑が建てられている。右の旧中山道を進むとさっそく格子戸の古民家があり旧街道に入ったそんな雰囲気だ。


 数分歩くと蕨宿界隈史跡めぐりと題された絵地図があり、その斜め前方に瓦葺格子戸の家が見えるが、この家は明治時代の商家で、今は「蕨市歴史民族資料館・分館」(右)として一般開放されている。

注:写真の家は明治の建物と棟続きの、昭和初期に建て増しされたものである。

 資料館先を右に入った「長泉院の梵鐘」(左)は「おしゃみの鐘」と呼ばれた江戸時代の名鐘。山門を入って探したが、無い! 梵鐘どころか鐘楼も無い ? ところが、、、なにげに上を見ると本堂の屋上に鐘楼が。そして梵鐘も。


 街道に戻ると、その先左側が蕨市歴史民族資料館である。 展示物の中央に「蕨宿の町並み」(右)が模型で再現されているが、街道沿いにびっしりと家が並んでおり、さぞや賑やかだったろうと想像する。

 蕨宿には本陣が2軒あったが、その1軒、岡田加兵衛本陣は資料館があった場所で、資料館横が 「蕨本陣跡」(左) として整備されている。皇女和宮もこの本陣で休息したそうだ。

 本陣跡の先を右に入り3〜4分歩くと「和楽備神社」(右)がある。ではなく和楽備というところがいいね〜。御由緒によると、室町時代の創建ということだが、明治44年に18社を合祀して和楽備神社に改称したのだとか。

 神社横に蕨城の城跡が、僅かだが残っている。

街道に戻り数分歩くと「中山道武州蕨宿」と刻まれた宿場碑が建てられており、その先に見える趣のある建物は「鈴木薬局」(左)。

 さらに数分歩くと天保年間創業と言う老舗煎餅店満壽屋がある。生地作りから焼き上げまで一貫して手作りの煎餅は堅焼きで美味い。

 満壽屋の横の道を 地蔵の小径 と呼んでいるが、六地蔵や梵字で刻まれた馬頭観音を見ながら進むと「三学院」(右)に行くことができる。
 コメント:実は裏道から三学院に入ったため六地蔵や馬頭観音を見ずに引き上げてしまうというチョンボをしてしまったのだった。

 街道に戻ると、道は左にカーブしながら国道を横断する。その手前の「中山道ふれあい広場」(左)に楽しいパネルがはめ込まれていました。



 この先の街道は坦々とした道が続き、外環自動車道までくると立派な「一里塚の跡碑」(右)が建てられている。ここは江戸から5里目の辻一里塚があった場所。

 街道はこの先で再度国道17号を横断し「焼米坂」を上って行く。そういえば、東海道保土ヶ谷宿の先に「焼餅坂」という坂があったなー。

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