第1宿板橋宿いたばしじゅく
 板橋宿は江戸4宿(千住・品川・内藤新宿・板橋)の一つ、日本橋を旅立って
最初の宿場である。 多くの旅人はここ板橋宿で別れを惜しんだという。
一方、歓楽地としても多いに賑わった宿場でもある。

 板橋という地名は、石神井川に架けられた橋名からきたもの。

  

平成20年3月3日   おばあさんの竹下通りは賑やかだねー。

 本郷追分で日光御成道と分かれた中山道(現在の国道17号) は、都心の国道とは思えないほど車が少なく静かな街道に変わり、30分ほど歩くと「白山通り合流点」(左)に到着。

 今度は思い切り広くなった白山通りを左側に渡り、15分。

 JR山手線陸橋の少し手前に「徳川慶喜巣鴨屋敷跡碑」(右)が建てられている。明治30年にこの地に移り住んだ慶喜だが、すぐ裏に鉄道が通ることを嫌い、4年後に小日向に移ってしまったのだとか。慶喜65歳のときである。

 JR山手線陸橋を渡り2〜3分歩くと中山道は左に曲がり、かの有名な「おばあさんの竹下通り」へと入って行く。

 その入口左側の真性寺「江戸六地蔵尊 第三番(参拝順)(左) の地蔵菩薩が鎮座している。 品川寺(ほんせんじ)、太宗寺で見てきた六地蔵と姿、お顔が良く似ている。それもそのはず、作者が同じだったんですね。

 ちなみに、この地蔵尊の建立は正徳4年(1714)

 地蔵尊の近くに「芭蕉句碑」(右)がありました。
 「白露も こほれぬ萩の うねりかな   芭蕉翁」

 真性寺を出ると、中山道はいよいよ「おばあさんの竹下通り」である「巣鴨地蔵通り商店街」(左)へと入って行く。右も左もおばあさんばかり。おじいさんも少しは居たかな。

 数分歩くと とげぬき地蔵 で有名な「高岩寺山門」(右)が街道に面して建てられている。ところで、何故「とげぬき地蔵」なのか、その由来は。

 話は正徳3年(1713)のこと、毛利家の女中が口に咥えていた針をうっかり飲み込んでしまった。さあ大変、ところが地蔵尊の御影(おみかげ)を飲ませると、飲み込んだ針が刺さった御影が吐き出されてきたのだそうだ。

 「とげぬき地蔵」は秘仏として本堂奥に収められているため拝観できないが、代わりに人気なのが「洗い観音」(左)。病の場所を洗うと病が治るそうで、この日も長蛇の列。どういう分けか若いお嬢さんも。


 高岩寺を出て7〜8分、「折戸通り」との交差点あたりは立場として賑わった場所。ここに「巣鴨の庚申塚」(右)がある。門を入ると正面が小高い塚になっており、その上の庚申堂に庚申塔が祀られている。

 庚申塚の数分先が「都電荒川線」(左)の庚申塚停留所である。目の前の踏み切りを通り過ぎる車両は、電車ではない、バスでもない。やはり路面電車。 頼りなげな走行音がいいんだなー。

 都電の踏み切りを渡ってすぐに左に入り、3〜4分歩くと小学校手前の公園の奥に「大日堂」(右)が見える。

 しゃれた形の堂であるが、元々は、二代将軍秀忠に使えた春海和尚が、秀忠と夫人徳子の菩提を弔うため承応2年(1653)に建立した大日堂で、大日如来坐像が安置されている。現在の堂は戦後、再建されたもの。

 街道に戻ったら数分歩いて、中学校脇の路地を右に入り国道17号を越えて西方寺と妙行寺にちょっと寄り道を。

 西方寺の墓地の一角に「傾城2代目高尾太夫の墓」(左)がある。西方寺が浅草・吉原の近くにあったとき、高尾太夫と開山者の道哲上人恋仲になったのだとか。昭和2年(1927)、寺は巣鴨に移転し、墓も移された。 コメント:道哲上人と高尾太夫との恋仲については諸説あり、定かではない。


 さらに奥に入ると、妙行寺に四谷怪談で有名な「お岩さんの墓」(右)がある。実は、お岩さんは大変貞淑な女性であったが、鶴屋南北なる人物が、売れれば何でもありだと脚色に脚色を加えて作り上げたのが四谷怪談のお岩さんである。

 甲州街道・四谷三丁目にお岩さんゆかりの「田宮神社」と「陽運寺」があるが、「妙行寺」も元は四谷にあり、明治42年(1909)この地へ移転。

 街道に戻り、明治通りを越えた滝野川辺りをかつては種屋街道と呼んでいたそうだ。中山道を通る旅人に練馬大根などの種子を売る問屋や小売店が多かったのだが、「東京種苗」(左)もその1軒。

 JR埼京線踏み切りの手前を左に入り1〜2分、板橋駅前に 「近藤勇の墓」(右)が。

 慶応4年(1868)、新撰組局長近藤勇はこの近くで処刑され、首級は京都に送られたが、胴体はこの地に埋葬。後に隊士の長倉新八によって供養塔が建てられたのである。

ここから平成20年3月21日

高速道路の高架下(国道17号)を過ぎるといよいよ板橋宿の入口となる。宿場町は平尾・中・上の三宿で構成され、本陣は中宿に置かれていた。

 板橋宿に入る前に寄り道を。 国道17号を渡ってすぐに右に入り東光寺へ行くと「宇喜多秀家の墓」(左)が見られる。八丈島流罪となった秀家一族であったが、明治に入って赦免され、東京に戻った宇喜多家が建てたもの。


 街道に戻り板橋宿に入って1〜2分、右側に観明寺の参道がある。その入口の青面金剛像が彫られた「庚申塔」(右)は寛文元年(1661)に造立されたもので、都内最古のものだとか。

 さらに数分、今では貴重な存在となった唐破風の玄関を持つ銭湯があるが、その横の路地を入ると「平尾脇本陣跡碑」(左)が建てられている。

 銭湯から5〜6分歩いた右側は明治初期に廃寺となった「遍照寺跡」(左)である。宿場時代は馬つなぎ場として賑わっていたそうだが、今はひっそり。

 その先のスーパーライフは本陣があった場所で、横のブロック塀手前に「本陣跡碑」(右)が建てられている。本陣跡碑反対側の石神医院は高野長英ゆかりの地だそうだ。

 スーパーの先を右に入った文殊院 には 「遊女の墓」(左)がある。3本の墓石に何人もの遊女の戒名が刻まれており、異郷で命を落とした彼女達の哀れさが偲ばれる。

 街道に戻り、4〜5軒先の路地を左に入った奥の石碑は名主・飯田宇兵衛家の「脇本陣跡碑」(右)。京都を出発した皇女和の宮の最後の宿泊地が飯田宇兵衛家であった。

 再び街道に戻るとその先は地名にもなった「板橋」(右)。 日本橋からニ里二十五町三十三間だそうだ。(10,642m)

 板橋を渡り上宿に入って数分、板橋上宿碑を見るとその少し先に、今でも信仰されているという「縁切り榎」(左)がある。皇女和宮の降嫁のときは縁切りを嫌い、わざわざ迂回路を造ったそうだ。

 この先しばらく歩くと国道17号に合流、トラックがうなりをあげて通り過ぎる。

 トラックに付き合って約20分、石垣に囲まれた小山は左右とも現存という貴重な「志村一里塚」(右)である。国道17号沿いだというのに左右とも残してくれたとは、道路を設計した技術者に感謝である。

 旧中山道はその先数分で左に入って行く。とたんに静かな住宅街の中の街道に変わり、「大山道道標と庚申塔」(左)が見えてくる。道標は寛政4年(1792)に建てられたもの。

 庚申塔の先に清水坂碑が建てられており、その先あたりからカーブの多い急坂の下りとなるが、下った先にも「清水坂碑」(右)と説明板が建てられている。

 東海道に左富士と言う場所があったが、清水坂の先は右富士と言われた場所だそうだ。

 清水坂碑の先でまたまた寄り道を。左に行かず右に曲がり国道17号にぶつかったら、ちょっと板橋側に戻り信号を渡って17号の向こう側へ。

 信号を渡ると、白壁の向こうが「薬師の泉庭園」(左)である。
八代将軍吉宗も誉めたという大善寺の湧水があった場所で、「江戸名所図会」の挿絵にも描かれている。

 挿絵をもとに整備したという庭園は、国道のすぐ下だということを忘れてしまうほど静かで落ち着いた雰囲気。

 すぐ先の環八通りを渡り、右側の旧道をしばらく歩いたら再び国道17号へ。「戸田橋」(右)を渡ると埼玉県である。新しい戸田橋は長くて単調なんだ。東海道でよく見かけた鉄骨橋には味わいがあったなー。

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