徳川家康は全国の支配を磐石なものとするために、慶長6年(1601)から交通網の整備に着手。 特に江戸日本橋を
基点とした五つの街道を主要幹線と定め、幕府の道中奉行に管理を行わせている。その五街道に接続する主要街道を
脇往還として定め、勘定奉行の管轄で(一部道中奉行管理の脇往還もある)地元の藩に管理を行わせていた。
これらの街道には宿駅を設け、公用の書状や荷物の運搬取次ぎを行う問屋場、公用人の宿泊を行う施設として本陣・
脇本陣を、一般旅人のためには旅籠が設けられていた。 また、旅人の便宜の為に街道筋には一里毎に一里塚が
設けられてもいた。
明治維新で国の制度が変わりこれらは廃止されたが、その遺構・遺跡が各地に残り、整備・保存が行われている。 |
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