赤山街道 吉川道 道中記
旧日光街道の先から吉川まで
越谷道の表紙に戻る

令和2年11月10日 街道地図

関東郡代の伊奈忠治は二郷半領(吉川郷・彦成郷・50戸未満の小領)の干拓も手掛けておりこの方面へ通じる道路の整備も行っていた。
この道は赤山街道越谷道から分岐していたことから同じように赤山街道と呼ばれ、吉川郷へ通じているので吉川道と呼ばれるようになった。

旧日光街道を横断し数分歩いた先の十字路が越谷道と吉川道の分岐点。ここを右に曲がり越谷市役所前を通って元荒川沿いを歩き中川を越えていく。

旧日光街道を横断し200メートルほど歩いた先の十字路が越谷道と吉川道の分岐点。ここを右に曲がり越谷市役所前を通ってしばらく歩くと鎮座しているのは「瓦曽根稲荷神社」(左)。甲州武田家滅亡の際、武田勝頼の子・千徳丸と共に落ち延びた元沼津城主中村彦左衛門一栄家の屋敷神として祀られていたと云われ、江戸時代には瓦曽根村の鎮守であった。

稲荷神社前の道を5分ほど歩くと「照蓮院」(右)。創建年代は不詳。この寺には武田勝頼の遺児・千徳丸の墓石供養塔があるのだがうっかり見過ごしてしまった。次回の越谷道を歩くときに寄り道しなければいかんな~

吉川道に戻ると左手に「瓦曽根溜井」(左)が見える。慶長年間(1596~1615)に元荒川を水源に造られた灌漑用水の溜井で、この時期は小さな川のようだが田植えの時期は満水となり湖のように。元荒川はこの向う側に流れている。

交差点際にあった「庚申塔道標」(右)は享保8年(1728)に造立されたもの。傍らの説明板によると、左右に「これより上 じおんじ 三里はん」  「これより左 吉川へ壱里大さかみ 内」 「これより右 市川まで 五里」 と刻まれているようだがほとんど読み取れない。 
「じおんじ」は岩槻区の坂東三十三観音十二番札所慈恩寺のこと。「大さかみ」はこれから行く大相模大聖寺のこと。

左前方に見える橋は瓦曽根溜井と元荒川を跨ぐ「しらこばと橋」(左)。横浜のベイブリッジと同じ構造の斜張橋で、橋名はこの地方だけに生息するシラコバトにちなんで命名されたのだとか。吉川道はこの橋は渡らない。
溜井に沿って進み元荒川の土手道を歩いて不動橋近くまで来たら橋の手前を右に曲がると大相模大聖寺東門前。

大聖寺は天平勝宝2年(750)の開基とされる古刹。不動院と称していたが天正19年(1591)に当寺に泊まった徳川家康から寺領60石を賜り大聖寺に改めたという。「山門」(右)は文化元年(1804)に再建されたもので掲げられている山額は老中松平定信の筆といわれている。

吉川道は大聖寺東門前を左に曲がり数分歩いたら三叉路を右に入るとその先は住宅地の中の道。

道路際の真っ赤な鳥居を潜り数分歩いた先は「日枝神社」(左)。説明板によると 「勧請年は不詳ながら奥州街道に面した古社で、かつては六寺院を配下におさめていた大きな社だった」 。今は村の鎮守といったところか。

街道に戻り4~5分、長~い参道の先に鎮座しているのは村の鎮守「久伊豆神社」(右)。ここは奥州旧街道の道筋にあたり早くから開けていた。武蔵七党野与党の一族、大相模次郎能高が本拠とした地とされ、久伊豆神社は野与党一族の氏神だっと云われている。 鳥居横の銀杏の大木は樹齢数百年だとか。

久伊豆神社を出たら吉川に向かってバス通り(大相模不動尊通り)を歩くのだが、途中、バス通りから一歩右へ入った旧道の十字路際に「賽神塔」(左)があり、左側面に「吉川道」、右側面に「野道」と刻まれている。

十字路を左に曲がりバス通りを越えた先に寺院が見えたのでちょっと寄り道を。向かった先の「浄音寺」(右)は天正19年(1591)に寺領10石の御朱印状を拝領ということだが、詳しい事は分からない。手入れの行き届いた気持ちの良いお寺です。

ほどなく中川に架かる吉川橋を渡り吉川市内に入るのだが、吉川橋新設工事のため橋周辺が複雑。橋が完成すればスッキリするだろう。
江戸時代、吉川橋が出来るまでは「かご場の渡し」があり中川沿いを通ってきた下妻街道もこの渡し場を通って吉川に入って行った。

「吉川に来てなまず・うなぎを食わずなかれ」と言われたほど川魚料理が盛んだった吉川で、天保8年(1837)創業という「福寿屋」(左)が吉川橋を渡った左側で今も川魚料理を提供している。

その先に見える寺院は永仁3年(1295)開基という古刹・延命寺。
その山門前に「庚申塔」(右)が並んでいるが、右端の文化2年(1805)の文字庚申塔は道標も兼ねており、側面に刻まれた道筋は「右松ぶし ほうし花道」「左こしがや 江戸道」。

吉川でもう一軒の川魚料理の老舗が「麹屋」(左)。こちらは江戸開府時の創業で400年の歴史を持ち、近藤勇や勝海舟、板垣退助なども訪れているという。きっとなまず料理を堪能したのだろう。

糀屋対面の道を入って数分歩くと吉川の総鎮守「芳川神社」(右)。文治3年(1187)に時の武士団吉川氏が再興したという古社。なまず料理 が売りの吉川、なんと なまずのお守りが。

麹屋の前まで戻り県道67号を真っ直ぐ南下するとJR武蔵野線の吉川駅。今回の街道歩きはここまで。

旧中山道の先から杉浦陣屋に戻る   越谷道の表紙に戻る