赤山街道 越谷道 道中記
赤山陣屋跡から旧日光街道の先まで
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①赤山陣屋跡から旧日光街道の先まで   ②旧日光街道から杉浦陣屋まで   ③吉川道 街道地図

令和2年11月10日

越谷道のスタートは「赤山陣屋址碑」(左)前から。
先代の伊奈忠次から代官職を引き継いだ伊奈忠治は赤山領を下賜されここに陣屋を築いたが、本丸、二の丸、出丸を空堀や土塁で囲んだ本格的城郭形式であったことから赤山城とも呼ばれていた。その後170年に渡って代官職を続けたが忠尊の代(寛政3年)に養子問題など些細なことで領地没収。

本丸跡や「堀跡」(右)などが整備され丁寧な説明板も設置されているので歩く前に見学していくのも良いだろう。
 詳しい案内がこちらのHPに載せられています。

陣屋跡碑前から遊歩道を南下すると県道161号にぶつかるが、その手前に「赤山日枝神社」(左)が高台に鎮座している。寛永年間(1624~44)に関東郡代の伊奈忠治が赤山陣屋をこの地に構えた際、陣屋の守護神として祀られたもの。

越谷道は県道交差点を左に曲がり東京外環自動車道の下を通ったらすぐに左へ曲がっていく。 数分歩いた先の三叉路際にポツンと立っているのは「西立野道標」(右)。刻まれている道筋は 正面石仏の下に「百堂母*道 是より二丁」とあり、右側面に「こしケ谷道」、左側面に「いしがみ道」。

越谷道は三叉路を右へ曲がって行くのだが左へ曲がって寄り道を。向かった先は弘仁年間(810~824)に弘法大師が国家鎮護のために創建したと伝えられる古刹・西福寺。参道を入った正面の建物は「百観音堂」(左)で、西国、坂東、秩父札所の観音像が安置されており、この一堂にお参りすれば百カ所の観音霊場に参詣したと同じ功徳が得られるのだとか。

参道右の「三重塔」(右)は三代将軍家光公の長女千代姫が奉建したもので高さ23mという大きなもの。建立されたのは元禄6年(1693)。塔内には千代姫の位牌と釈迦三尊が安置されている。

越谷道に戻り県道の花山下東交差点まで来るとその先に旧道が残っているので旧道へ。

しばらく歩いて県道に戻ると交差点奥に「天満宮」(左)が鎮座。この神社では江戸時代初期から夏祈祷の獅子舞が続いている。神社でお清めをした獅子舞が村の各家を回り家人の頭を噛んで邪鬼を食べ、一通り回り終わると村境いで村内中から集めた悪魔を吐き出し、最後に神社へ戻って舞い込みを行なうのだそうだ。

街道はこの先で大きく右に迂回して一ノ橋を渡り再び県道へ。かつては大きな沼があり迂回せざるを得なかったようだ。県道に戻ったら「大沼大明神」(右)にも寄り道を。室町時代、上杉定正に仕えていた太田道灌が岩槻城を築くための資材を部下の兵士に船で運ばせていたが舟が難破し兵士らは沼底に。後年、憐れんだ村人が神社を創建し兵士の霊を慰めたという。

越谷道に戻り5~6分、「辰ノ口橋交差点」(左)には辰(龍)にまつわる伝説が。赤山街道沿いの水路がここまで来ると新川の下を潜る穴に水路の水が落ち込んでいくがそれが龍の口に落ち込むようだったので「辰ノ口」。もう一つある。新川の川底から龍が激しい勢いで天舞い上がったが、その跡に大きな穴が開いたので「辰ノ口」という説も。

国道4号、JR武蔵野線を越えた先の交差点際に立つのは「三ツ谷地蔵」(右)。三ツ谷西川家の覚心法師が遊行中の元文2年(1737)に悪人に殺されてしまった。西川家では地蔵を建立し弔ったが運の悪い事ばかりが続くので神主に見てもらうと方角が悪いとのこと。そこでこの地へ移したらそれからは幸運になったという。それ以降、願い事を聞いてくれるお地蔵さんということで多くの人に親しまれている。

 頭部スカイツリーラインのガード下を通った数分先に見えたのは「有瀧家の見事な黒板塀」(左)。有瀧家は江戸時代から続く旧家。黒板塀の手前を左に曲がると、かつては樹齢400年というタブノキがそびえていたが、今は伐採され小さくなってしまったのが残念。
 黒板塀の先は十字路だが、右から左へ横切る道は旧日光街道。越谷道はここを横断していく。

横断して数分、道路際に正観世音菩薩碑が建てられているが、その奥は観音堂。その参道に「馬頭観音道標と徳本供養塔」(右)がある。馬頭観音は文化10年(1827)造立で、刻まれている道筋は右側面に「大さがミ道」、左側面には「のだ せうない 道」。徳本供養塔は文政5年(1822)の造立。

正観世音菩薩碑の数分先の十字路を左に曲がる道が杉浦陣屋跡に向かう越谷道で、右に曲がる道が吉川道。 この先は杉浦陣屋まではちょっと遠いので吉川道を歩くことに。

②杉浦陣屋跡まで  ③吉川道   表紙に戻る