釣りする人
猟師、求むびんごの考え。


 ミリの違い、センチの違い。
 わたしは基本的に、船からの釣りを好む人とは話が合いませんし、船釣りの話をしたいとも思いません。船頭さんは別ですが。
そもそも酔うためになかなか船に乗らないというのもありますが、あれはわたしは釣りではなく、一種の釣り堀だとさえ思うのです。異論もございましょうがわたしの考えを聞いてください。
 船釣りは、自分で”ここだ”と思ったポイントに仕掛けをたらすことができるでしょうか。絶対にできません。まずは必ず船頭さんに”案内”してもらわなければなりません。しかも現代では99%の船頭さんが魚群探知機を使って、群れを探しながら、そこに仕掛けを落とさせる釣りになっています。魚探のない船だとしても、船頭さんの長年のカン、経験に基づいて開発されたポイントへ、結局”案内”されるわけです。その時点でわたしの言う”釣り”は”釣堀”になってしまいます。そこに魚がいるとわかっている釣り場に運んでもらい、ほぼ確実に釣らせてもらう訳ですから。よく言っても管理釣り場程度です。わたしはそんな甘ったれた釣りごっこがいやなのです。まあ、同じ船でも、自分でポイントを探すことのできるボート釣りなら好きです。

 わたしの言う釣りは、”自分で「ここだ」と思ったポイント”に自分で作った仕掛けを投入し、狙ったとおりの魚を釣り上げることです。自分で作った仕掛けや狙ったとおりの魚を釣るという行為の前提として、”自分で「ここだ」と思ったポイント”というものをとても重要視しているのです。自分で作った仕掛けや道具、狙ったとおりの魚というのは、その達成感を増幅させるための補助的手段に過ぎません。もちろん、その全てが満たされたときは至上の喜びにほかなりません。
じゃあ、人に連れて行ってもらったときはどうなのか。「その辺を釣って」と指図されるのは嫌いですが、「ここの潮の流れはこうなっていて、ここの地形はこうだから、この辺がいいんじゃないか」と言われる分にはぜんぜんいやな気がしません。場所の概略を聞く分には、そのポイントを早く理解する手助けになるのでとてもありがたく聞き入れますが、「ここは釣れるからやってごらん」と言われた場合、自分のことをよく知り、経験を積んだ者同士、気の合う間柄での笑い話レベルでないとやる気がおきません。

 とにかく”釣らされてる”という環境がいやなのです。
自分で考えた場所で釣れなくても、それは自分の見立ての甘さから来たものだし、自分がやれることはその時点で全てやっているということなので、それは満足なのです。そう。自分の選んだポイントなら、釣れなくても満足なんです。
船の場合は、釣れるという前提で考えれば、釣れた数でその人の技量がわかりますが、自分で釣り場を選ぶ場合は、それ以前にポイントを見極める技量も必要になります。ある程度経験を積めば、逆に釣れそうもない場所でいかに釣るかを鍛えることもできるわけです。それはマゾヒスティックなトレーニングなのでお勧めはしませんし、わざわざそういうことをしているんだ、というストレスもたまるので、わたし自身、よほど機嫌がよくないとやらない行為ですが、そういうこともできるわけです。

 つまるところ、船釣りは、”獲れるか獲れないか”ではなく、”どれくらい獲れるのか”ということが前提のサンマ漁に出るようなもので、陸から、自分なりのポイントを探して釣るのは、漁というよりは猟に近いのではないかと。だから船で釣るよりは釣れる数は少ないです。ただ、”食うための釣り”をしない者にとっては”全てを自分で選び、釣るための釣り”ができることの喜びのほうが大きい。ここまで読んでもらって申し訳ありませんが、わたしは、一言で言うなら”結果よりも経過を求める”タイプです。この一言で片付きます。同じタイプの人となら、船釣り好きな人とでも仲良くなれるんでしょうけど。

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