ふたり



 七月半ばの土曜日、午後六時。夏の長い日差しは陰を含む気配も見せず、空はどこまでも明るい。短い影の闇は濃く、太陽を背中にして歩くふたりの表情を陰らせた。一日中ずっと日差しを吸い込んだアスファルトはたっぷりと熱をたくわえて、ふたりの足元にゆらゆらと小さな陽炎を作っている。滲み出る汗が背中を伝うのを感じながら、ふたりは肩を並べて歩く。病院から続く長い坂道を下りながら、ふたりは何も話さず、表情を固く強張らせていた。一度でも口を開けば、顔の力を抜けば、何かがこぼれてしまいそうなのはお互い様だった。体つきこそしっかりと出来上がった“男”であったけれども、今のふたりは年相応の少年でしかありえなかった。

 坂を下りきったところの公園で、彼らはようやく息をつく。並んで深くベンチに腰掛けて、ふう、と吐き出されたのは、はたしてどちらのものだったか。幸村の病室を出た瞬間から、今まで、ずっと息を詰めていたような気分だった。少なくとも真田にはそう感じられた。
 目の前に幸村がいれば伝えるべきことがあまりに多くていっそ何も考えることなどなかった。しかし、彼の病室の扉を閉じて薄暗い廊下に柳とふたりになった途端、世界の理不尽さが全て幸村にのしかかっているように思えて、怒りなのか悲しみなのか不安なのか、兎に角どうしようもない気持ちに襲われて真田は苦しくなった。そして今も同じだ。なぜ幸村なんだ、と、誰に言っても何にもならない言葉が口をついて出そうだった。ベンチに背中を預けたまま固く目を瞑る。幸村が居なくても、自分と仲間はきっと立海の勝利を勝ち取る。勝ち取ってみせる。けれど、一緒に手にすることが出来るならどんなに良かったことか。

「決勝の日に手術だなんて、あんまりだな」
 五分か十分か、あるいはもっとか。何をする訳でも何を話す訳でもなく、ただ並んで座って、それからようやく真田は口を開いた。そして堰を切ったように話し出す。
「幸村が頑張っている時に、オレ達は応援することも出来ない」
「そうだな」
「幸村に、オレ達の試合を見ていて欲しかった」
「ああ」
 柳は静かに同意の言葉を返す。彼は真田と同じように真っ直ぐに前を向いて、どこか遠くを眺めているようだった。柳は節目がちな上に長い睫毛が目を覆ってしまうものだから、いつも表情を読み取るのが難しい。もっとも、もう長い付き合いになる真田は、今更柳の顔色を伺うことはない。お互いが思ったことを思ったように言い合える関係は、とうの昔に出来上がっていた。
「青学には、勝つ自信がある。みな、強いのは分かっている」
「ああ。今回のウチは、本当に良いメンバーだ」
「それでも、幸村が一番強い」
「……ああ」
「発病するのが、幸村でなくても、よかったんだ」
「弦一郎…」
 最後の言葉は、まるで吐き捨てるようだった。その言葉の意味よりも、そのらしくない口調が柳を驚かせた。咎めるように名前を呼ぶ。真田のほうに視線をずらせば、彼は、もう真っ直ぐに前を見てはいなかった。腿に肘をついて、そうして大きな手で顔を隠すように覆っていた。なんで、と小さく呟くのを柳は見た。それは柳も初めて見る真田の姿で、柳は今更に幸村の部長としての存在の大きさを実感した。柳自身も部長としての友人としての幸村がいない違和感を感じてはいたものの、真田がこれ程に幸村を重く思っていたことにより大きな驚きを感じた。しかしそれを何と真田に伝えれば良いか分からない。言葉が見つからなかった。

 また、自分は蓮二に甘えている。そう分かっていても、真田は言葉を止められなかった。なぜ幸村が、あれほど強いヤツが、と考えはじめれば止まらなかった。幸村は元々逞しいほうではなかったが、それでもテニスをするためのしっかりとした筋肉を備えていた。しかし今日、幸村はシャツの上からでも分かるほど衰えていた。顔色も紙のように白かった。入院して一月も経ってはいないのに。まるで人形のように生気のない幸村の姿に、真田は愕然として、混乱した。なぜ幸村が、と、意味のない問いだとは十分分かっていても、柳に吐き出さずにはいられなかった。
 自分の不甲斐なさにも嫌気がさして、真田は顔を覆った。隣に座る柳もこんな自分に飽きれているだろうかと真田が思ったとき。ポンポン、と二度ほど、軽く背中が叩かれるのを感じた。真田は思わず顔をあげる。微かに暮れかけた空に向かい、まっすぐに前を見る柳の横顔があった。オレンジの陽を受けて微かに肌に朱が混じる。
「大丈夫だ」
 柳は言う。口元はわずかに笑ってさえいるように、真田には見えた。真田の背に回った手のひらは、子供を落ち着かせるようにポンポンと、もう一度背中を叩く。薄い夏の制服ごしに柳の体温が伝わった。
「大丈夫だ。オレ達は勝てるし、幸村の手術も上手くいく。そうしたら、今度はみんなで全国大会に進めばいい」
 何も不安なことはない、柳生はそう言う。しかし真田は、その言葉を言うための彼の努力を知っていた。勝つために、柳は誰よりも理性的に客観的に数字を見極め作戦を立ててきた。楽観的でいられるはずがない彼が、『大丈夫』と言うことの裏にあるものが、真田の何かを動かした。我知らず、手が動いた。潔く前を見据える横顔に、触れたい、と真田が思ったのはもう頬に指が届いた後だった。暖かくすべらかな感触に、指が震える。
「…………弦一郎?」
 頬をすべって唇を掠めた真田の指に、柳は、驚くでもなく咎めるでもなく柔らかく声をかける。しかし自身の行動に驚いた指は、その声だけで逃げるように引っ込められた。柳は真田に向き直り、尋ねるように目を合わせる。真田は柳に触れたほうの手を、自分でも分からないという風に少し見下ろした。しかしそれ以上悩む風でもなく、まっすぐ柳を見返した。
「どうした?」
「いや、別に何も。ただの思い付きだ」
「そうか」
 それきり会話は途切れ、そろそろ行くか、とい真田の声でふたりは立ち上がり駅へと向かった。少し先を歩く背中に、柳が切なげに笑ったのを、真田は知らない。



真田×柳。
凪ちなむさんが描かれた
「Der Lotos」という連作柳絵が元ネタです。
20031028up