幸せの形のひとつ



 鍵は持っていたけれど、チャイムを鳴らしてドアを開けて貰った。海堂先輩はそれに何を言うでもなく、おかえり、と迎えてくれた。細いカチューシャで真っ直ぐな前髪をあげた完全なお家仕様。オーバーサイズのカーディガンにコーデュロイが少し剥げた着古しのパンツ。パンツは中学時代から見慣れたもので、カーディガンはオレが制服にしていたもの。着ているものさえ思い出に満ちて愛おしくて、オレはたまらず海堂先輩を抱きしめた。今はもうちょうど良い位置にある肩に顔を伏せて深く息を吸い込むと、海堂先輩の匂いがした。うちの匂いだった。
 海堂先輩は一瞬体を堅くした後、オレの頭に手を寄せて、ぽんぽんと撫でた。小さな子供をあやすような仕草は、かつて絶望的な身長差と反目のあったころ、海堂先輩が少し心を和らげてくれたサインだった。身長も体格も逆転し世をはばかりながらも恋人同士となった今はもう、不要になったサインだけれど、海堂先輩の長い指の感触は昔とかわらずオレを安心させてくれる。
「ただいま。会いたかった。やっと会えた」
「……お前は何度おかえりを言わせたい」
「あなたが言ってくれるなら何度でも聞きたい」
 海堂先輩の呆れた声に、当たり前だと笑えてしまうけれど、それならいっそ、ともっと笑われるような事を言ってみる。空港から帰るその足でオレは堪らず海堂先輩の大学に行ってしまって、けれど海堂先輩は仕事中でオレもテニス協会に顔を出す必要があって、本当に顔を見るだけで別れてしまっていた。
 無駄に豪華な協会事務所で複雑な手続きと追従の嵐に遭遇してぐったりして、遠征中ずっと引きずってきたキャリーカートはいよいよ重く、本当に海堂先輩に会いたくて仕方が無かった。昔から変わらない高い体温が気持ちよくて安堵の息が漏れる。
「言わねえよ。もう打ち止めだ、馬鹿」
 抱く腕にぎゅっと力をこめると海堂先輩はうっとうしそうに身をよじった。久しぶりなんだから甘えさせてくれもいいのに、と少しだけ恨めしく思う。けれどこのひとつ年上の恋人に逆らうなんてこと――ときどき、からかったりはするけれど――は出来なくて、腕を緩める。恋人の長い腕がオレの腕の輪から抜け出して、少し寂しくなったところで口付けられた。
 自由になった海堂先輩の右手はオレの顎を、もう左手は後頭部を掴む。勢いよく下を向かされて、え、と思い間もなく唇に、目に、額に、頬に、そしてもう一度唇に、海堂先輩の唇が触れてくる。暖かくて柔らかい感触。実はテニスで勝つたび女の子たちから山のようにそれを贈られてきたのだけれど、内緒だがそれを結構楽しんだりもしてきたのだけれど、恋人のそれは全く違う。比較できるものでもない。女の子たちの唇がただ楽しいのだけれど、海堂先輩の唇は優しくて切なくて愛しくて、欲情をそそる。薄目を開けてその表情を見れば尚更だった。
 手厳しい言葉と裏腹に、頬を赤くして泣きそうに眉をしかめた顔は欲目で見ても情けなくて、けれど普段の張り詰めた海堂先輩を知っているから、その表情は恋人がどれだけ自分を好きでいてくれるかを表していた。だから可愛くて愛しくて、もっと自分だけのものにしたくて堪らなくなる。
「……今日明日の予定は?」
 繰り返し触れてくる唇にじりじりと高められた熱を抱えながら、こそりと聞く。これだけ煽られているならなだれ込んでも良さそうなものだったが海堂先輩は別だ。感情のままに突っ走ってくれる人だから、自分の仕業がオレを興奮させるなんてこと、考えてもいない。そこが愛しいのだから別に不満はないのだが、サインを読み間違って進めてしまって、幸福な時間の後になって怒られる、なんてパターンはもう何度やったか分からない。だから内心少しばかり情けなくともお伺いを立てるのだ。そして引いた分だけ、見返りはある。
 海堂先輩はオレの質問に意外そうに目を大きくして、それから今度は海堂先輩のほうから腕が回された。頭を引き寄せられてぎゅっと抱きしめられる。前屈みの姿勢は少し苦しいけれど、嬉しさのほうがずっと強い。そして、耳のすぐ横で、もっと嬉しくさせてくれる言葉が囁かれた。
「断ってきた」
 低く短いぶっきらぼうな言葉。首に回った腕の力が一層強くなった。けれどそんなサインが無くても海堂先輩が照れているのが分かる。

 もう、可愛くて、愛しくて、目眩がしそうだ。





(20070121~20070704)



 10年後リョ海でただただラブラブ。下は文中の薫さんのイメージでした。