接触





 やることなすことセルフィッシュ。
 そのくせ他人に迷惑かけてない気になっている。
 或いは迷惑がかかることにも気付いていない。
 絶対的に自分が正しいと信じている、愚かな無邪気さ。
 一番嫌いなタイプだと、実は、思っていた。


 腰の辺り、後ろからドン、と押されて海堂はつんのめる。とっさに足を前にずらして堪えるが、ぎゅっと腰に回った腕が思い切り体重を乗せてきた。踏ん張りがきかず、腰にへばりつく相手ごと、地面に倒れこむ――顔面を避けようと体をひねった時、とっさに自分より小さい相手を腕に抱き込んだ。
「わ、あ!」
「……ヴっ」
 ドシ、ともズシ、ともつかない低い音をたてて二人はコートに倒れこむ。腰をしたたかに打った海堂は反射的に呻いた。しかしジンジンと痛みを意識する前に、遠慮なく自分の体に被さっている後輩に怪我がないことを確認する。膝、肘、腰、肩、とざっと目を走らせて海堂は密かにほっと息を吐いた――すぐ後に、習性のように相手を庇ってしまった自分に気付いていましましげに舌打ちをした。後輩の背に回していた腕をいささか乱暴に解き、それからようやく、腰の鈍い痛みを感じて眉をしかめる。
 海堂の痛みと引き換えに無傷で済んだ後輩はと言うと、あービックリした、と呑気に笑っていた。
「かいどーセンパイ、下半身もっと鍛えたほうがイイっすよ。倒れるなんて思わなかったから、ビックリした」
「うるさい、とっとと退け。重い邪魔だボケ」
 腰の痛みの張本人である後輩は、海堂の上に馬乗りになったまま悪びれた様子もない。体育会系にお約束なはずの年功序列を欠片も気にしない越前に海堂は苛々とする。序列以前にそもそも常識すら危うい気すらして、これが自分の後輩だと思うと頭が痛くなった。そうして追い討ちのように、お前ら何遊んでんだー、という声がどこかから飛んでくる。それと、クスクスという笑い声。
「……お前、じゃれつくんなら相手を考えろ」
 低く吐き捨てると、乗っかったまま立つ気のない越前の腕をとって、自分ごとさっさと立ち上がる。ニヤニヤとl海堂を見上げた越前は不機嫌な顔で見下ろされ、ドンと肩をこずかれた。そしてそのまま海堂は場を離れる。
「かいどーセンパイって、つまんなーい」
「そう?」
 台詞の割に楽しそうに海堂の後姿を見送っていたところに、いきなりバックを取られた。越前が驚いて振り返ると、そこには先ほどの自分と同じにニヤニヤと楽しそうな乾の姿。このデカイ図体でどうやって気配を消しているのかと、越前はすさまじく不思議に思う――正直、薄気味悪くもある。しかし朴訥な外見に反比例して俺様な性格の先輩は、後輩の歪んだ表情を全く無視して楽しそうに話を続ける。
「今のやりとり、オレは大変面白かったけど?」
「…………そーっスか」
 そらーヨカッタっすねオメデトー、と言わんばかりに、越前はやる気も敬意もない返事を返す。俺様ではあるものの(テニス以外の)細かい所は気にしない乾はそれを、ヒョイ、と片眉を上げて見下ろすだけで済ませた。そういうアッメリケンな仕草はオレの専売特許…と越前は内心、なんとなく嫌な感じだ。
「こういうときは『どうしてですか』と聞きなさいね、会話のラリーが続かないだろ。あ、『何がですか』でも代用化だぞ。出来ないと今後の学園生活が大変だ。とにかくやり直しだ、『大変面白かったけど』?」
「…………『どうしてですか』…」
「それはだな、海堂が越前にとても甘いのが分かるからだよ」
 半ばうんざりと返事をした越前に、乾は意外な言葉をよこしてくる。越前はきょとんとして、しかし、あの自分しか見えない偏った人が誰かに甘いなんてこと、ましてや自分に甘いなんてことがあるものかと、内心乾の見当違いを笑う。
 もちろん顔には出していないつもりだったが、どうやってか乾は越前の考えが分かったようで、仕返しのように笑い返される。オレはお前より物が分かっているのだと言いたいような表情で見下ろされて、その余裕ぶった顔が越前の癇に障る。広げたノートに何事か書き込んでいるのが分かるのに中身が全く見えず下から表紙を見上げることしか出来ないのもまた、越前の不快感を煽った。
「そんなことある訳ナイっすよ、見てたんなら分かるっしょ?」
「見てたから、分かるんだけどなあ」
「何がっすか」
 わざとはぐらかすような乾に、越前はますますイライラする。言葉遊びは嫌いなほうではないが、主導権が自分にあってこそのお遊びだ。相手に舵を取られたこの会話は越前にとって、大げさに言えば苦痛だった。けれど苛立ちに任せて口を閉ざし、乾に背を向けてしまうことはプライドが許さない。それではまるで越前の思う海堂と同じだったから。
 一方乾は、不機嫌そのものの素っ気無い声に好戦的な目で見上げてくる越前にどうしても笑みが浮かんで仕方なかった。
「なあ越前、怪我はないか?」
「はあ?あ、さっきのスか?別にどこも」
「服も汚れてない?」
「大丈夫だと思いますけど、それが何すか?」
「海堂はどうだろうね」
「え」
 越前の強い視線がふと揺らぐ。乾は笑みを深くした。
「お前を庇った海堂が怪我なんかしてないと良いけどね」
「あ……?」
『うるさい、とっとと退け。重い邪魔だボケ』
 二人分の体重を受けて地面に倒れこんだのだから、それなりの衝撃はあっただろう。もちろん痛みも。けれど海堂はそのことで越前に何も言わなかった。怒鳴ることも手を上げるようなこともなかった。普段あれだけ気の短い人なのに。
 越前は視線を外して口ごもる。乾はさらに尋ねた。
「なあ越前、お前何で海堂に飛びついたりした?」
「別に、理由なんて……」
「ない?本当に?」
 ぱっと見しょげたように俯いた越前に、自分のペースに持ち込んだ乾はうな垂れた風情に構うことなく追い討ちの言葉を重ねる。真上から降ってくる、全てを見通したような声に越前は、フイと背中を向けて歩きだした。
「べつにアンタには関係ないっしょ?」
 無言で後輩の背中を見送ろうとした乾に、負け惜しみのような捨て台詞がひとつ。聞いた乾は眼鏡の奥で目を見張る。そして閉じかけていたノートをもう一度開きなにか短く書き込んだあと、自分もコートの方へと戻った。傍目には変わりなかったが、乾はとてもとても、面白がっていた。
「人の心情をデータで計るのはなかなか難しいな」
 練習中に楽しげに呟いていたのを、隣に入っていた不二が聞きつけていた。

 後ろから思い切り反動をつけて抱きつかれる感覚。それは海堂にとって慣れたものだった。部活からの帰り道や朝のトレーニングから戻ってきた時、トンッ、と軽い衝撃と共に体を押し付けてくる弟が居るためだ。おはようやお帰りと一緒にやってくるスキンシップに海堂はすっかり慣れきっていたものだから、越前に飛びつかれた時に身構えることを忘れていた。そのため弟よりもずっと重い体を支えきれずに倒れこんでしまったのだが、海堂は自分の油断を恥じた。ジンジンと鈍く痛む腰が自分をあざ笑うようで、思わずチッと舌打ちをする。
「海堂?どこか痛むのかい?」
「何でもねえっす」
「無理はするんじゃないよ、特にお前はね」
「……ッス」
 耳聡く海堂の舌打ちを聞きつけて、球出しをしていた竜崎が声を掛ける。海堂は何でもないと応えたものの、腰のあたりの痺れたような感覚はその日の練習中ずっと消えてはくれなかった。
 そんなにひど打ったとも思わなかったのに、と違和感を引き摺りつつメニューをこなし、部活後の自主練は不本意ながらごく軽いものにした。無意識に腰を庇うせいで全身に動かしたりない感覚が残る。皆が帰った後の薄暗い部室のドアを開きつつ、海堂は満足できずにぶすくれていた。
「ったく、あの馬鹿のせいで」
「……馬鹿でどーもすいませんっしたね」
「………………ぁ?」
 思わず繰言が口をついて出たところで、暗闇からふて腐れた声が響いた。声自体はまだ高く、けれど不遜な口調はここ数ヶ月ですっかり馴染んでしまったものだ。一瞬の驚きのあと、海堂はベンチに座って見上げてくる後輩の無謀さにあきれてしまう。
 既に日も暮れ、空調を切った室内は肌寒い。それなのに越前は、一体何の用だか知らないが、ここにぼーっと座っていたらしい。体を冷やすことがどれだけ悪影響を与えるか、知らないはずはないのに。海堂はドアの脇を探り蛍光灯のスイッチを押す。鮮明な明かりの元で見れば越前は制服を着ているだけだった。海堂の眉間にシワが寄る。本当に不本意だったが、今日の自主練を早く切り上げて良かったと思った。
「……なんで、怒ってんスか」
「テメェのせいだよ、この馬鹿が」
「はぁ?オレがアンタに何したって…」
 イヤしたんだっけ、と越前は言葉を止める。海堂はその姿を冷ややかに見下ろして自分のロッカーに向き直ってしまった。ごそごそと着替え始める背中を越前は、どうしたものかと眺めながら、けれどそれにしたって今更怒ることはないだろうと再び口を開きかけた時。
「ぃった…!!いきなり何するんスかあんたは!」
 突然越前の顔面目掛けて投げつけられたものは、たった今脱いだばかりの海堂のレギュラージャージ。たかがジャージとはいえ何の構えもなくぶつかって来られれば、それなりに痛い。突然の攻撃に思わず怒鳴ってしまった越前に、しかし、海堂はやりあおうとはしなかった。
「るせぇよ、騒ぐな。お前が馬鹿だから悪い。大人しく被っていやがれ」
 後ろ手にジャージを投げつけた海堂は、ちらりと視線を送っただけで、越前を振り返ろうともしない。黙々と汗を拭いアンダーシャツを身につけカッターシャツを羽織る。越前は絡もうにも絡めず歯噛みしたい気分でもう一度深く腰掛けた。海堂へのあてつけに、被害者ぶってジャージは投げつけられたままにしておいたのだが、頭をジャージで覆った越前の格好を海堂は全く構わなかった。越前は面白くない。
「…………折角、謝ろうと思ったのに」
 越前はぼそり、と、ふて腐れきった声を洩らした。学ランのボタンもきっちりと留め、荷物の片付けに取り掛かっていた海堂は、その声にようやく振り向いて後輩を見やる。自分から頭を隠してしまっていた越前は気付くことはなかったが、とても珍しいことに、海堂は楽しげに微笑んでいた。軽く口元を緩めたまま、海堂は後輩に近寄る。
 ジャージの裾からわずかに見える足元に、海堂の靴先が覗く。海堂が自分のすぐ前に立っていることを知りながら、越前は顔を上げなかった。謝罪なんて自分らしくないことを、しようとするのじゃなかった、と、内心酷く後悔していたためだ。早く家に帰れば良かったと繰言を思いつつ、ジャージの下の暗がりでため息をつく。その時。
「……っっ!!!」
 ガイィン、と頭のなかで鈍い音がこだまする。頭がくらりと一回転したあとで、強烈な痛みがやってきた。思いっきり拳で殴られた場所はすでにジンジンしている。あまりの突然さに構えることも出来ず、越前は声も出せずに頭を押さえた。
 無言で頭を押さえる後輩に、殴りつけた張本人の先輩は何の斟酌もせず、彼からさっさと自分のジャージを剥ぎ取った。時折ジッパーの金具が殴られた場所にあたり小さく呻くのにも、海堂はまったく構わない。越前はとっさに海堂の腕をとって唸ったが、海堂はあっさりそれを振り払う。丁寧にジャージを折りたたむと、これまた丁寧にバックに仕舞い込んだ。そうしてバックを肩にかけて立ち上がる。
「オイ、オレが鍵を預かってるんだ。用が済んだんだからとっとと帰れ」
「〜〜アンタって!!」
 突然殴ったことへの弁解も謝罪もなく、さらに迷惑そうに追い立てられて越前は声を震わせた。しかしそれでも海堂に悪びれるところはなく、いっそ泰然とすらしている。
「何だか知らねぇがオレに謝るつもりだったんだろう。だからこれでチャラだ。下らねぇことでこんなトコで待ってんな。体を冷やす。だからテメェは馬鹿なんだ」
 こんな面倒くさいことわざわざ言わせるな、と海堂はもう一つはき捨てて越前を小突いた。関節を滑らせて押し付ける小突き方は手馴れていて、一瞬痛いが後に引かない。この人はこういった対処に慣れているんだ、と越前は海堂を見上げた。相変わらずの不機嫌顔だが、どこか楽しそうに見える。
「ボーッとしてんな。閉めるぞ。早く出ろ」
「……ウィーッス」
 既にドアを押さえてイライラと越前を待っている海堂に従って、越前もバックを取って立ち上がる。ふいに体の周囲を動いた空気が冷たくて、肩口がヒヤリとした。越前は、ああ、と気付く。なるほどあのジャージはオレが肩を冷やさないようにという海堂の気遣いだったのだと。
「センパイ、優しいッスね。どーもありがとうございます」
「……お前が鈍いんだよ、一年が」
 海堂が足で押さえるドアをくぐりながら、越前は礼とも軽口ともつかない礼を言う。海堂は鍵を掛けつつ、眉をしかめた。

 夕食後、日課ロードワークをこなしながら、海堂は未だ違和感を引き摺っていた。腰のあたりの痺れるような感覚に加えて、ジャージを引き寄せた時越前に掴まれた、右の手首がいやに熱を持っていた。
 痛いのとも異なる、違和感、としか言いようのない感覚に困惑し、海堂は忌々しげに舌打ちをした。そして、違和感をふりきるように、海堂はもう一段ペースを上げて走りだす。




リョ海のイメージはこんなんです。
20040823up