サタデーナイトシアター





 ピーンポーン。
 いわゆる高級住宅街の一角にある海堂宅の、玄関チャイムが高らかに鳴る。時間は午後の8時半。夜の早いこの辺りの住人が客人を迎えるには少しばかり遅すぎる時間だ。しかしこの家の主婦・海堂穂摘はなんのためらいもなくドアホンを取り、「はーい、ちょっと待っていてねー」と愛想良く応え玄関に向かってパタパタとスリッパを鳴らす。よほど馴れた相手だろうか、穂摘はノーメイクに赤いチェック柄のパジャマというおやすみスタイルのまま鍵を開けた。
「どうぞ、いらっしゃい」
「どうもッス」
 門灯に照らされていたのはまだまだ小さな影。ぺこりと頭を下げた彼を穂摘は微笑んで迎えいれる。緊張するでもなく海堂邸に入ったのは、彼女の息子の後輩の、越前リョーマだ。
「まったく、晩御飯も一緒にどうって、いっつも言っているのに聞いてくれないんだから」
 玄関で靴をそろえる後姿にむかって穂摘がなじるように言うと、リョーマははにかんだ笑顔を返す。その控えめな態度は穂摘の好みにぴったり合ったもので、彼女のリョーマに対する印象はすこぶる良い。
「あの、これ。どうぞ」
「やだもう、本当に気にしないでくれて構わないのに。お風呂もお家で入ってきちゃうのに、いっつも何かと貰ってしまって、かえって申し訳ないわ」
 リョーマは背負ったバックとは別に持ってきた紙袋を穂摘に差し出す。穂摘は困ったように笑いながら、しかししっかりとそれを受け取った。家が寺だからよく貰うんですいつもお邪魔させてもらっているから、とリョーマが気負い無く語るのもいつものことだ。そういった社交辞令が穂摘にとって必要不可欠であるのが最近、なんとなく分かってきた彼女の長男は、壁に寄りかかって二匹のたぬきのやり取りをげんなりと眺めた。
「あら薫、上がったの。じゃあ飛沫くんにお風呂空いたって言わなきゃね」
「あ、かいどーセンパイ。今晩は。来たッス」
「……おう」
 風呂あがりに台所へ向かおうとしたところで玄関ホールのふたりに気付き、毎度やっているらしいその無駄なやりとりに思わず足を止めた海堂だったが、とっとと間に入ればよかった軽く後悔する。家族の会話を後輩に聞かれるというのは何とも気恥ずかしいものだ。「じゃあ、あんまり夜更かしはしちゃ駄目よ?」とリョーマと息子に軽く声を掛けると、穂摘は再びパタパタと軽やかに去っていく。夫を呼びに行くのだろう。残された先輩と後輩はすこし離れた距離で見詰め合ってしまい、これまた妙な感じになった。そこはかとない気まずさに、先輩は視線を落とし、後輩は口元で笑う。
「……なんか飲むもん、取ってくる。お前は先に部屋行ってろ。あと、分かったらセッティングもしとけ」
「了解ッス」
 海堂は居間へ続くドアの向こうに消え、リョーマは勝手知ったる様子で二階へと階段を登った。


「出来たか?」
「かいどーセンパイ、これはどこに繋ぐんスか?」
「これってどれだ……の前にお前、なんでこんな暗いんだ。電気点けろ」
「観始めたら消すんだから、別に良いかと思って」
「……無精者が」
「合理的っしょ」
「うるさい、繋いどくからとっとと電気点けてこい。んでドア閉めてこい」
「うぃーっす」
 二人分の紅茶を手に海堂が自室に入ったとき、リョーマはテレビの薄明かりのもとでごそごそと作業をしていた。鮮やかとは言えないその手付きを一瞥し、海堂はさっさとその場を変わってしまう。場所を取られた後輩は、床に置かれたマグカップを蹴飛ばさないようソロリと立ち上がると大人しく電気を点けにいく。
 リョーマは開け放した扉部分から入る廊下の明かりを頼りに照明のスイッチを探るのだが、指先で壁をたどるものの中々見つからない。少しいらすきながらパタパタと大きく手探りを始めた時、人の気配を感じたのか目の前の部屋の扉が勢いよく開いた。
「あ、やっぱり!越前さん、こんばんは」
「……ッス」
「ああ、ええと、寝巻きお貸ししますね。ちょっとそこで待っていて下さい」
「……どうも」
 そっけないリョーマの返事に怯むことなく、葉末はにこりと笑って自室に舞い戻る。二年前の海堂はきっとこんな風だったろうと思わせる兄そっくりな顔立ちと、兄とはまるで正反対の人当たりの良さ。そのギャップがどうにも馴れないせいだろうか、リョーマは海堂の弟があまり得意ではなかった。リョーマより一つ年下である葉末のパジャマがジャストサイズであることも、印象の悪化に拍車をかける。リョーマが手持ち無沙汰に室内に目をやると、葉末の声が聞こえているだろう海堂は、暗がりの中まったく気にせずに配線作業を進めていた。
「はいどうぞ。ちょうどいいと思いますよ」
「……どもッス」
「どういたしまして。今日はどんな映画なんですか?」
「……えーっと…」
 早く会話を打ち切りたいリョーマの本音には全く気付かず、葉末は人懐こく話を続けようとする。このままでいくと一緒に映画を観るはめになるのではないかとリョーマは内心苦虫を潰すが、上手く切り抜ける方法が見つからない。らしくなく言葉が宙に浮いた。
「葉末、越前。廊下で話すんじゃねぇ。下に響くだろ。中、入れ」
「はい」
「……ッス」
 セッティングを終えた海堂がようやく廊下の二人に声を掛ける。自然に会話を打ち切ることが出来たのは有り難かったが、いきおい葉末まで海堂の部屋に入ってきた。兄弟の親しげな空気に挟まれて、リョーマは何となく居心地が悪い。
 扉が閉められますます暗くなった室内に、ぱっと蛍光灯が点く。葉末は自然に海堂の部屋の照明スイッチに手を滑らせていた。その酷く馴染んだ様子は、ごく当たり前のことではあるが、海堂との距離の近さを見せ付けているようにリョーマには見える。居心地が悪いどころではなく嫌な気分がした。しかし相変わらず、葉末はリョーマの内心に気付かず話掛けてくる。リョーマは、菊丸先輩に似ているかな、とちらりと思った。
「ね、越前さん、どんな映画なんですか?」
「……あー、『蝶の舌』っつー、スペインの」
「あー、ちっちゃい子が主役のやつですよね、予告でみた事あります。いいなぁ、僕も観たいです。……ご一緒しては、お邪魔ですか?」
 部活の先輩の家に遊びに来て、色々やっかいになって、その先輩の弟にお願いされれば断わるのは至難の技だ。そうでなくても、こうもストレートに“観たい”と言われてしまえば無碍に扱うのも気が引ける。越前は何とか断わる良い口実はないだろうかとか考えた。
「良い訳ねぇだろ、お前は明日公開模試だろうが。映画観てるヒマがあったら勉強しろ。それが嫌ならとっとと寝ろ」
「……はい」
 海堂は弟の可愛らしい願いを切って捨て、葉末はしょぼんと目を伏せた。同じくらいの背の、一つ年下の、けれど物怖じしない明るい少年が、兄の一言で一息に縮むようになってしまったのに、リョーマはチラリと視線をやる。勿論いつもの余裕の表情は崩さないのだけれど、海堂が弟相手であっても手厳しいのに驚いていた。
 一人っ子のリョーマにとって、兄弟に近いものと言えば従姉妹の奈々子かカルピンぐらいで、彼らは常にリョーマに優しかったし、リョーマも他人よりずっと優しく接していた。漠然とではあったが、兄弟とはそんなものだろうと考えていた。兄か弟か、いらた良かったのになと甘く夢見た頃もあった。とにかく、リョーマの思う兄弟とは優しくてフワフワしてものだったのだ。そのため弟に厳しくあたる海堂の姿はリョーマの持つ“兄”のイメージとは違っていて、とても新鮮だ。けれど如何にも海堂らしい。“葉末の兄”ではない自分の知っている海堂がこの空間に戻ってきたようで、リョーマは妙にほっとした。
「…………じゃあ、おやすみなさい。お邪魔してすいませんでした」
 見るからにしゅんとした葉末は、それでも折り目正しく兄とその後輩に頭を下げて部屋を出ようとする。身内同士の会話には首を突っ込まないのが無難だろうと傍から眺めていた、そしてどちらかといえば葉末が得意でないリョーマだったが、頭を下げてドアに手を掛ける姿を見るとさすがに可哀相になった。その時。
「明日、帰ったらな」
 ちょうどリョーマの目の前にあった葉末の顔が、その一言で輝く。本当に輝くというのがぴったりな表情の変化に、なるほど日本語とは見事な比喩をするものだとリョーマは妙なところで感心した。
「はい!」
 輝くような笑顔を見せて葉末が去った後、何事もなかったように配線を整えた海堂がリョーマにDVDのソフトをセットするように顎で示す。海堂の口元はいつもより少し緩んでいて、いつもより少し楽しそうで、葉末との無造作なやりとりが海堂にとっては普段どおりの優しいものなのだと、リョーマにもぼんやりとだが理解できた。そして、時折、ほんの時折自分にも向けられる海堂の優しさが、葉末のおこぼれのようなものなのも、同時に理解した。
「越前?」
 海堂の後ろに突っ立ったまま動かない後輩に、いぶかしむような声が掛けられる。リョーマはそれに笑顔で応じている自分が損な性格をしているなと、こっそりため息をついた。