あなたに追いついた



「あ」
「ああ、悪い」
 部活の後。着替えていたら、トンと肩がぶつかった。海堂は軽く謝ったが、特別悪いとは思っていなかった。男子テニス部の部室は特別狭くはないし、レギュラー専用の使用時間を貰っているのだから文句も無い。けれど十人近い男子中学生が着替えれば、余裕がある訳でも無い。当然ぶつかる当たるは日常茶飯事で、おざなりだろうと謝った海堂は至極丁寧なほうだ。けれどぶつかった相手が大げさに肩に手を当てて固まったものだから、海堂はむっと眉をしかめた。これが桃城ならそのまま殴り合いだったろう。
「んだよ、そんな痛かったかよ」
 混み合った室内で近い距離に寄ったまま、海堂は不機嫌な声を隠さず確かめる。その相手は見開いていた大きな目をぱちりと瞬かせて、慌てて首を振った――一瞬よぎる違和感。けれどそれが何か分からないまま海堂は目の前で大きく笑顔が咲いたのに目を奪われた。
「え?え、……そんなの、どうでもいいッスよ。そうじゃなくって」
 リョーマは嬉しそうにホラ、と海堂の正面に立った。もうゴツゴツしてきた手が伸ばされて、海堂の頭と自分の頭の位置をすっと示す。それは二人の間を地面と水平に動いて、わずかも差が無いことを証明した。
「今気付いた。身長並んじゃったね、海堂先輩」
「……あ」
 ね、と『上目使いに見上げてくる』はずのリョーマの視点はまっすぐ前を向いていた。けれど海堂と話すのに何の不都合も無い。それに気付いた途端、十分な筋肉を備えた肩や削げたて大人びた頬が海堂の目に飛び込んでくる。海堂の胸までしか無い、態度ばかり大きい小柄な後輩は、気が付けば海堂とすっかり並ぶまで背を伸ばし、筋肉の付き方に至っては、鍛えても身に付き難い海堂よりも上のように見える。海堂は目を見張った。
 思ったより早かったかも、と呟くリョーマはあからさまではないが嬉しそうだ。けれど海堂は、それを一緒に喜んでやることは出来なかった。後輩に並ばれるのが不満だとか心の狭い話では無い。原因は、一年と少し前にリョーマと交わした約束だった。単なる気の迷いかも知れない、ただ一度しか言葉にはされなかった約束が、リョーマと海堂の間にはある――少なくとも海堂はそれを覚えていた。海堂はゴクリと唾を飲み込む。
 海堂にとって約束は守るべきもの。けれど、リョーマと結んだ約束は、進んで果たしたいものではなかった。そもそものリョーマが忘れている可能性も十分にある。忘れているなら好都合、けれどそれに悩んだ海堂自身が馬鹿みたいに思えて不愉快でもある。そもそも本当に自分が約束の実行を拒みたいのか分からなくて、どこかで望んでいるのかもしれない自分が居て、けれどそんな自分をどう理解したら良いのか分からない。
「海堂先輩」
 ぐちゃぐちゃでまとまらない考えで一杯の、ぱっと見はただの無表情の海堂をリョーマが覗き込む。普段よりあどけなく見える笑顔も、一度意識してしまえば少年から青年に変わりかけていた。ああ、格好良いな、と海堂は思って、思った途端、テニスバックを掴んだ。そのまま混んだ部室から外へ駆け出す。おつかれまです!と左右から掛けられる声にも応えず走り抜けた。






『アンタと背が並んだら、ちゃんと話を聞いてくれる?』
 後輩はいかに海堂のことが好きかを真摯に告白してくれたけれど、海堂は返事をするどころかその言葉を信じることが出来なかった。お前みたいなチビの言うことをまともに聞けるか、と、動揺の裏返しの酷い言葉を投げつけた。しかしリョーマはそれを非難することはなく、ただ聞いた。海堂はその問いにすらまともに応えず、知るか、と卑怯な逃げを打った。そのくせ誠意を受け止められなかった自分への後悔は鮮烈で、翌日のリョーマは何事も無かったように振舞ってくれたのに海堂自身は幾度となくその記憶を反芻した。
 そしてリョーマの言葉は暗示のように海堂に染み付き、海堂はその記憶と暗示に蓋をした――怖くなった。ちゃんと話を聞いた自分が、何を考えるのか怖かった。






 海堂先輩、と声が掛けられる。海堂は足を止めた。ロードワークに弾んだ息を整えながら前を見れば、もう小さくは無い後輩が公園の入り口にもたれて、海堂を待っていた。
「越前」
「お疲れ様ッス。ちょっと休みません?」
 はい、と渡されたのは冷えた缶で、100%のオレンジジュース。ランニング途中の火照った体に気持ちよくて海堂はあっさり受け取ってしまう。リョーマが自分の缶に口を付けるのに釣られて、入り口の手摺りに並んで体を預けた。住宅街の夜は人気が無く静かで、少しの物音もよく響くから、お互いの声は自然と潜められる。冷えたオレンジジュースが体の中を通っていくのを心地よく感じながら、気まずい話をするにはうってつけだな、と海堂は思う。そして、ゆっくりと缶を乾しつつ、リョーマが口火を切るのを待った。けれど海堂がジュースを飲み終えてしまっても何も言わない。海堂は手持ち無沙汰にチラリと後輩を見て、後悔した。
 リョーマは海堂を見ていた。口を付けただけの缶ジュースは横に置いてしまって、祈るように掌を組み合わせて、海堂の横顔にじっと目を向けていた。口元に小さく笑みを浮かべた穏やかな表情は、海堂の知っているリョーマと違う。世界の全部に勝てると信じていた不敵な子供の笑顔は、勝つための手段を考える大人の不安を知り始め、ずっと優しくて強かなものに変わっていた。海堂は敢えて気付かなかった後輩の成長に息が詰まる。弟の成長を喜ぶような優しい気持ちと、その先を恐れる気持ち。そのふたつが交じり合って何とも気持ちが不安定だ。
 そんな緊張を知ってか知らずか、道を通り過ぎていったバイクの灯りを追ってふいっとリョーマの視線が反れる。海堂は一瞬ふっと気が抜けて、けれどその瞬間リョーマの言葉に捕まった。
「なんか、良いッスね。海堂先輩と同じものが見えるって嬉しい」
 海堂がかちりと固まる。リョーマは振り向かないまま続けた。
「でもそのせいで最近、下を向かれちゃうと何にも分からない。隠されちゃうと分からなくなった。だから」
 だから何も隠さないで。真っ直ぐ思ったまま言ってくれれば、そのまま聞こえるようになったから。
 もう行ってしまった灯りの軌跡からゆっくり視線を戻して、リョーマは海堂に言う。腰掛けて並べば、手足の差の分むしろリョーマのほうが目線は高いくらいだ。そして穏やかに微笑んだままのリョーマは続ける。
「オレは海堂先輩が好き。凄く好きだ。海堂先輩はどう?」
 世間話の続きのように自然な言葉を聞きながら、けれど僅かにだか見上げる形の海堂には、微笑んだリョーマが奥歯を噛むのが分かってしまった。真っ直ぐ視線を合わせる目は穏やかだったが、ギリッと歯と歯を軋ませて緊張と怯えを散らす姿が見えてしまった。とっさに言葉が飛び出す。
「オレは」
 海堂は隠すことはもう、出来なかった。





(20070830)



 2007年8月4日に観劇したテニミュのキャストさんが、薫役の子とリョーマ役の子の身長がほとんど一緒だったのにときめいたのが元ネタでした。ふたりの座り位置がずっとお隣でそれだけで物凄く幸せになれました。ので、記念に小話に。