花の色、雲の影




 卒業式の練習用に配られた何枚かの藁半紙には、在校生が歌わなければいけない曲の楽譜も一緒に印刷されていて、初めて見るその歌詞にリョーマはとても驚いた。「なつかしいあの思い出」を「花の色」や「雲の影」に託すことが出来る作詞家の豊かな感受性に驚き、またそれに疑問を覚えることなく歌える周りに驚いたのだ。リョーマの思い出といえばもっと生々しくて熱を持ったような、花や雲のように透き通って綺麗なイメージを持ったものではなくて、皆そんなもんだろうと理由もなく考えていたのがひっくり返された気分だった。
 部室で海堂とふたり昼食を取っているとき、リョーマが驚いた気持ちをそのまま話してみると、海堂は変な顔をしてリョーマを見た。今日は午前中が卒業式の練習で時間が変則的だったせいで、海堂は昼休みに自主練をすることが出来なかった。本人はとても不満げだったけれども、そのお陰で一緒に昼ご飯を食べることが出来たので、リョーマにとっては卒業式様々だ。なので、リョーマはいつもより饒舌に、海堂はいつもより寡黙に、ランチの会話を交わしていた。
 厳しく躾けられたのが分かる海堂の器用な箸先が止まって手元に納まった。両手で箸を押さえるようなやり方を、リョーマは海堂の弁当を摘ませてもらいながら、なるほど綺麗な仕草だと感心した。けれど海堂にじっと見つめられる感覚はくすぐったくて、到底やり過ごせるものではない。同じように箸を引っ込めて目を合わせた。
「なに?」
 リョーマが尋ねてみても、海堂の答えは返らない。けれど珍しくも無いことだったので、特に焦りはしなかった。海堂は、自分が納得できる言葉が見つかるまでは口を開かない――といっても、自分さえ納得してしまえばどんな突拍子も無い言葉でも言ってしまうので、思慮深いのとは違うのだが。とにかく、海堂が返事をしないときは、ただ待っていればいいのをリョーマは知っていた。じっと考えを纏める海堂を眺めて待つ。それはリョーマにとって悪くない時間だ。部室の曇りガラスから差し込む日差しは春めいてぼんやり暖かく、グラウンドの喧騒は遠い。そして海堂はリョーマの言葉に応じて考えをめぐらせており、今は自分のことだけを考えてくれているのだと思えば、だらしなく頬が緩んでくる位には悪くなかった。
「お前は……」
「うん?」
 ぼそりと海堂の声が落ちる。しかしたった一言で再び、ためらったように口を閉ざしてしまう。これは珍しいことだった。リョーマはいぶかしむのと促すの、両方の意味で合いの手をうつ。海堂は両手で持っていた箸を弁当の蓋に置いて手を組んで、ちらりと視線を腕時計に走らせた。昼休みがどれくらい残っているか確認したのだ。その仕草にリョーマも、これは真剣に話し体制だな、と理解する。
「お前はアメリカに帰るのか?」
「突然っスね。いきなりそれは何っスか」
「日本人じゃないなと思った」
 海堂の中でぐるりと一周した末の言葉は、時に聞き手に難解だ。なので最初に戻って思考の過程を説明してもらう必要もあったりする。その辺りを把握していないと海堂相手のコミュニケーションは難しい上、海堂本人の伝えようという意志が薄いため難しさに拍車が掛かる。リョーマは二年間の観察と経験でもって現状を作っている訳だが、自分ではそこそこ上手くいっている方だと判断していた。少なくとも今、目の前には、リョーマの目を見て話す海堂が居る。
「お前はあっちで生まれてあっちで育ったんだろ。ご両親が日本人でも、なんつーか、日本人じゃねぇだろ、それって」
「……ああ、それはそうかも。で、それが何でオレを見てたのと繋がるんスか」
「だから、当たり前の感覚が当たり前じゃない感じがした。お前は違う感じがする」
「うん」
「で、お前は日本に来たんだなと思った」
「ちょっと待って。それ、分かんないっス」
 数学の時間に図形の証明でもやっているような会話だ。淡々と説明が続き疑問点があれば手を上げるような遣り取りは、ムードが無いことこの上ない。けれど二人はそんなものを追求している余裕もなかった。お互いが何を考えているのかをきちんと理解して、すれ違いを少しでも減らして。いわゆる「お付き合い」をはじめて一年ほど経つが、とにかく思ったことを話すのが一番重要なのだとリョーマは身にしみて実感していたし、海堂も一応は理解していた。
 自分の思いをいちいち言葉にして人に伝えるのは、海堂にしてみれば煩わしく、気恥ずかしい作業だ。それでも毎度リョーマに促されるままに、あるいは今回のように自分から言葉を捜す理由は、知りたいし知って欲しいから、という、海堂自身の頭も痛くなってくるような、どうしようもないものだった。
 分からない、と顔を顰めたリョーマにつられ海堂の眉間にしわが寄る。
「来た、んだからいつか帰るのかと思ったんだ。だから聞いた」
「…………へぇ」
「それだけだ」
 言い切ると海堂は、話は終わったと思ったのか、もう一度時計を確かめると箸を取り上げ昼食を再開した。けっこうな勢いで弁当をたいらげていく。休み時間の残りが少ないのだ。次々に底が見えはじめた弁当箱に、リョーマも負けじと箸を伸ばした。海堂とのランチは、もちろん本人が一番の目的ではあるが、弁当のご相伴にあずかれるのも重要な所だ。
 二人は食事に集中し、部室内は無言になる。けれど海堂とは違い、リョーマにさっきの話を終わりにするつもりは無かった。モゴモゴと咀嚼しながら考える。自分が海堂の言葉を肯定し、うん、中学を卒業したらアメリカに帰るっスよ、とでも言ったら海堂はどうするのだろうと。といってもリョーマのコーチは父親で、越前家は家族ごと日本に戻ってきているのだから、実際にプロとして活動を始めたとしても拠点は日本になるのだろうと思う。ただリョーマは海堂の反応が見てみたかった。帰らないで欲しい、あるいは行かないで欲しいと言って貰いたいのだ。
 ジリジリジリジリジリ、とけたたましい音で予鈴が鳴った。ちょうど二人の弁当箱は空になり布で包んだところだった。お互い何も言わずに立ち上がり、海堂が先に、リョーマは後から部室をでて鍵をかける。卒業式はもう明後日で、部室で二人で弁当を食べる、のは多分これが最後だった。リョーマはチャラリと鍵を鳴らしてポケットにしまいこむと、先を歩く海堂に追いつく。
 リョーマが青学の付属高校に進学しないのは暗黙の了解だった。プロを近い将来の視野に入れているリョーマに、規則の厳しい私学は明らかに不向きだった。二人の関係を包んでくれている、学校の先輩後輩というオブラートは、あと数日しかもたない。
「ねぇ」
 海堂の背中に声が掛かる。振り返ると、数歩下がったところでリョーマが立ち尽くしていた。笑っているのに笑っていないような顔だった。海堂も足を止める。
「オレ、アンタが卒業すんの、嫌だな」






(20050323)



 海堂卒業に際してのリョーマの感傷。しかして卒業は先輩後輩の枠から抜け出すチャンスでもあります。春はステップアップの季節です。ファイト!!(何が)