はかない、たよりないもの


 花火セットのおまけにあった小さな蝋燭の火が夜風に消えた。
 海堂は乾から預かっていたライター――何故すんなりとポケットからライターが出てきたのかを、海堂は考えないことにした――を取り出して、風上にしゃがみこむ。膝を折った瞬間、軋むような引き攣れるような痛みが走った。足首の裏、ふくらはぎ、膝、太腿、股関節、両脇、腹筋、背中、肩、二の腕に肘。体中のどこをどう動かしても痛む。合宿の成果が表れてると喜ぶべきかもしれなかったが、普段の練習が足りていないのだと自分の体に笑われているようで業腹だ。だから海堂は、痛みを感じていることすら悔しくて、体中の筋肉の訴えを無視した。筋肉の切れる音が聞こえそうな体を無理矢理動かす。
 吹く風は風呂上りの濡れた髪を揺らして心地良かったが、花火には少々不向きだった。ライターの火は風に煽られ、なかなか蝋燭に点いてくれない。ふ、と風の緩んだ隙を狙って大分短くなった芯に再度火を向ける。ぽ、と、郊外の暗い夜に灯る小さな火。
「点いたっスね」
 ほっと海堂が息を吐いた時、真後ろから声が落ちた。まだ高い声を無理に押し殺すような、つっぱった声。海堂はとっさに立ち上がろうとして、けれど悲鳴を上げる筋肉は思うように動いてくれなかった。力を入れ損ねた膝が抜けて、人より長い手足がバランスを崩す。指先が虚しく宙を掻いて、倒れかける当人とは裏腹にふわりと穏やかな曲線を描いた。骨ばった指の先の赤が闇に映え、それは弧の四分の一を描いてから他の手に取られた。そして指先に湿った暖かい感触が這う。
「マメ、潰れてる。手当てしてないんスか?」
 カッコイイ手なのに可哀想、と言ってリョーマは傷を舐め、慰めるようにキスをした。驚いたように眉が上がり、ニヤッと笑った。真っ直ぐ見下ろされた海堂はまだ呆けたままだ。それをいいことにリョーマはひょいと腰を折って、状況の理解が終わっていない頭に顔を近づける。そして軽く、前髪越しの額に唇を当てた。また笑う。
「ちょっとしょっぱいスね」
 汗ばんだ夏の肌を指摘されて、海堂はカッと頭に血が上る。恥ずかしいのと腹立たしいの、加えて言葉と行為の生々しさ。舌と唇の温度と柔らかさが、まだ海堂は知らない、けれど続くはずの何かを想像させる。指先を握って支えるリョーマの掌が僅かに湿っていて、一層、海堂の動揺を煽った。
 かいどう、えちぜん、どうした?そして、遠くない場所から二人に声が掛かる。海堂はハッ我に返った。
「離せ馬鹿!!!」
「う、わ、先輩!」
 体の悲鳴も聞こえないくらいに動揺して、反射的に海堂は手を振り回す。無理矢理に手を払われたリョーマは思う人の体が傾ぐのに声を上げる。けれど警告は虚しかった。リョーマが叫び終えるより前、海堂は地面に座り込む。ハーフパンツから出た脛がべったりと土で汚れる。
 かいどー、だいじょうぶかー?
 また届く声、今回の声は幾つも重なったものだ。手持ちロケット6連発だドラゴン3個点けだと大騒ぎしている辺りが、海堂のいる手持ち花火組を振り返っていた。海堂が返事をするより早く、海堂の点けた蝋燭を早々に使用している不二が花火を振って応える。じゃれてるだけだよ。小さいなりに華やかな火に照らされながら、ね、と不二は海堂とリョーマに笑いかける。リョーマはあいまいに笑い返し、もはや海堂は返事をする気力もなかった。リョーマが差し出した手を大人しく掴んで立ち上がる。軋む骨と筋肉に海堂が眉を顰めるのを、リョーマはチラッと見た。
 軽く土を払うと、海堂は無言のまま使用済みの花火を集めてバケツに放り込む。海堂が自分を落ち着けているのがリョーマには分かったので、けれど今離れてしまうのはいけない気がしたので、リョーマは黙々と散らばった花火を集める背中の後を付いて歩いた。合宿所の駐車場に照明はなく、いったん花火の明るさから遠ざかれば暗い夜が広がる。馴染みのない闇の色を眺めながら、海堂とリョーマが縦に並んで歩く。ノースリーブから出た海堂の両腕が夜に浮かび上がって鮮やかだと、リョーマは目を細めた。海堂の人に慣れないプライドの高さや子供っぽい激情と同じ位、この腕が打つボールの軌跡がリョーマを惹きつけるのだ。リョーマにとって海堂と海堂のテニスは不可分で、傷ついた指先も体温の高い肌も誰より自分を追い込む性格も、結果筋肉痛で仏頂顔なのすら、すべてひっくるめて海堂が好きだった。
 もう花火の喧騒も大分遠ざかり、彼らが散らした燃えかすもここまではないだろうという所、海堂はようやくリョーマを振り返る。うっとうしく追ってくる後輩を帰そうと思った海堂は、けれど、緩く微笑むような見慣れない顔をしたリョーマに気勢を削がれる。いつだって海堂を煽る好戦的な後輩に似合わない穏やかさが、少しばかり不安になって海堂の語調は緩んだ。
「……どこまでついてくんだ」
「あんたの行くところに」
 海堂が暗に帰れと言っているのが分かりながらリョーマは答える。強引な言葉はリョーマらしいものだったが、挑発めかして笑うでもなく、ただ穏やかに答えるのに、海堂は妙に調子が出ない。人目も構わず過剰なスキンシップを仕掛けたことを許してはいないのに、と海堂は小さく舌打ちをした。
「ねえ先輩、花火はもういいの?」
「馬鹿騒ぎは得意じゃない」
「まあ、あんたはそっスよね」
 不機嫌を隠そうともしない海堂に、リョーマは変わらず緩く笑いながら、これ、と細い紐のような束を海堂に見せる。
「でもこういうのは好きでしょう?やろうよ」
 突然出てきたそれに海堂が目を丸くするのには構わず、リョーマはさっさと座り込む。海堂に火を求めて見上げ、海堂は持ったままの乾のライターで先を灯した。ジッと低い音を立てて燃えはじめる火薬。小さなオレンジ色の球形が次第に大きくなり、やがて糸のように細く散った火花を散らしだす。しばらく二人して眺めていると、ぽとんと、オレンジが落ちて火が消えた。リョーマは無言で新しいものを取り出し、海堂も無言でそれに火を付けた。そしてまたふたりで一個の火を見つめる。ふたりは花火が尽きるまで飽きずに繰り返して、そして終わると少し顔を見合わせた後、ふたたび縦に並んで部員たちで賑わうところへと戻った。けれど美しい、儚い、頼りない火花が、お互いの汗ばんだ指先を少しだけ絡めさせていた。お互いの確からしさを繋ぎとめるようにその指先は離れなかった。



(20060820)



 夏のワンシーンでした。