『とんがった10のお題/三日月(仁王×柳生)



 するりと身を添わせたのは、銀色の猫。無言でスリ、と体を押し付けてきて、そのまま部屋を真っ直ぐに進んだ。和紙を通して降り注ぐ、障子越しのやわらかい月明かりにたどり着くと猫は、ようやく柳生を振り返った。そして、なあん、と一声。障子を開けてくれ、とねだっているのではない。なぜ障子が開いていないのだと、不思議そうに尋ねる声だ。柳生はクスリと笑う。
「外は寒いんですよ?」
 からかうように猫に話しかけて、柳生はゆっくり立ち上がる。パサリと軽い音でさばかれた裾の生地を見れば、決して上質とは言えないもので、それはこの家の全てに言えた。清潔にすっきり纏まってはいたが、よくみれば畳は擦り切れ、障子にはなんども継いだ跡がある。外は寒いと言いながら、夕刻を過ぎても火鉢ひとつ点けない室内もしっかり冷え切っていた。長いこと本を繰っていた柳生の指先も、冷たくこごえている。けれどそれを気にする素振りもなく、年季の入った障子の格子に手を掛けた。指の長い手は、薄暗い、質素な室内にボウと浮かび上がるように見える。
 障子が開けられる。同じく年季の入った感じの縁側の先に、小さな、本当に狭い庭が広がっていた。けれど猫は開けた外に向かって飛び出すでなく、柳生の足元に座ったままだ。寄り添うというほど近くではなく、しっぽだけを柳生の足にのせている。偶然そこに柳生の足があっただけなのだと言っているような澄ました様子に、柳生はやんわりと笑った。
 空はすっかり藍色に染まっていた。柳生はかるく驚く。診療所が早めに引けて、この部屋に戻ったのが夕七つ。冬の昼は足が早いといっても、この闇は夕方や暮れ方のものではなかった。町人たちの喧騒も既になりをそひそめている。
 猫が小さく、な、と鳴く。じっと何かを見つめたまま。軽く自分に呆れていた柳生は、その声で足元の生き物に意識を戻す。光る一対の視線の先を追った。
「………………やあ…………」
 西の果ての、家々の真上に。あと少し下がったら地面にぶつかって壊れてしまいそうな、はかない三日月があった。藍色の闇を爪で引っ掻いたような細い三日月。
「美しいですね。あなたの仕業ですか?」
 猫はいつのまにか柳生の足にぴったりと身を添わせ、ぐるぐると楽しげに唸っている。銀の毛皮ごしの暖かさに、柳生は自分がずいぶん冷えていたのを知った。じっと月を見つめていた光る目は、今は柳生を見据えている。
「あの月では、亥の刻あたりでしょうか。本に夢中になりすぎましたね。……教えてくださって、有難うございます」
 かがんだ柳生が背をなでると、猫はぴくぴくとヒゲを震わせて応えた。そのまま柳生の手をすり抜けて、定位置の、押入れの布団の上に戻っていく。押入れのフスマは猫のために、いつでも少し開けたままだ。シッポを立ててねぐらに戻る後ろ姿。なんだやっぱり寒かったんじゃないかと、柳生は小さく笑った。小さな音と共に障子を閉める。もういい加減にしろと、遠まわしに伝えてくれる優しさが、以前と何一つ変わっていなくて、喉と目の奥が熱くなった。
 思い込みじゃない。柳生は涙をのみこんで、火鉢の種を点けながら強く思う。傷の癒えた体と血を流したままの心を抱いてこの部屋に戻った新月の晩。無人のはずの部屋には、けれど、銀色の猫が住みついていた。失ったはずの人を思い出させる色に涙を流すと、猫は体をすりよせ涙をなめあげた。
 思い込みじゃない。ポウと点った火種が、陶器ごしに柔らかな暖かさを伝える。
 それは猫の体温にも似て、柳生を微笑ませた。

 そして、満月。







初出:2005/02/10、日記にて
ページ作成:2005/02/18



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