『とんがった10のお題/針(仁王×柳生)



 幼い頃、一度だけ、ミツバチに刺されたことがあった。その日は友人の家に遊びに行って、庭に積んであったビールケースに目をつけた。そして、それらを並べ飛び石のようにして遊んでいた。他愛ない、子供の遊びだ。けれど長らく放置してあったビールケースには、蜂の巣が出来ていた。それに気付かず勢い良くワタシはケースの上に着地して、途端、足元から蜂が噴出した。突然巣を大きく揺らされて、蜂たちが驚き自らを守ろうとしたのは当然だった。結果、ワタシは半ズボンの足を刺された。パッ、と火が散るような瞬間の痛みと、次いでズキ、ズキ、と規則的な痛みがやってきた。友人の母が気付いてくれ、慌てて救急箱を取りに行く間、ワタシは痛みに座り込んで、半分泣きながら刺されてしまった膝の少し上を見た。驚いた。
 刺された場所には白く、時折ビクビクと動く小さなモノがくっついていたからだ。気味が悪くて慌てて取ろうとひっぱると、とんでもなく痛んで、これが蜂の毒針なのだと理解した。その小さなものが動く度にズキズキとした痛みが走って、友人の母がそっと抜き取ってくれるまで、蜂の針とはずいぶん意地悪く出来ているのだと涙を浮かべて眺めていたのを覚えている。
 その白いものが、蜂の筋肉であり、針を刺すことでミツバチが絶命することを知ったのはもうしばらく後のことだった。何故命を掛けてまで毒針を打つ必要があるのか、幼心に釈然としない思いがした。

 けれど今なら判る。長々とした手紙を書き上げて、封筒に入れて蝋で封をして、フワ、と甘い匂いが鼻先を掠めていったとき、何故だか昔のことを思い出した。それは、今の状況にはあまりにぴったりな思い出だった。柳生は自分のシナプスの優秀さにクスリと笑いが漏れる。これからやることは、ミツバチのそれと似通っていた。
 蝋が固まったのを確認してから手紙を尻のポケットにつっこみ、立ち上がると、いつもの癖でコートとマフラーを手にとっていた。引き寄せてしまった暖かい感触に、思わず苦笑してしまう。今はもう必要のないものだった。
 軽装のまま、深夜の自宅を、音を立てないようひっそりと抜け出す。扉は出来るだけ丁寧にしめ、すこし心配ではあったが、玄関の鍵はあけたままにした。鍵を掛ける音でみんなが起きてしまわないようにだ。遠くの音がよく響く、静かな夜だった。いや、普段と変わらない夜だったのかもしれない。けれど柳生には全てが初めてだった。深夜の外出、家族に内緒の決断、自分が馬鹿だと思えることを、それでもやってしまう自分自身。後ろめたさを感じたが、それ以上に胸が高鳴った。全て、自分は知るはずの無かった感情だった。知るはずの無かった、どうしようもなく苦しい思いもあった。けれど全てを飲み干して今は、全てが嬉しくて愛しい。
 赤いポストに封筒を落とす。カタン、という軽い音。明日の夕方には、きっと相手に届いているだろう。
「……いや、もう今日ですか」
 柳生は笑う。この手紙を読んだ人が、何を思うのか、柳生は考えなかった。ただ書きたいことだけを、伝えておきたいことだけと、何も考えずに書いてみた。人を思いやることなく、ただ自分が思うままにすること。それは酷く自由で爽快だった。
 傷付いてくれるだろうか。柳生は笑顔のまま、静かな街を歩きながら、けれど少しだけ不安になる。ショックを受けて、傷付いてくれなければ、これから柳生のやることに意味はなかった。あの手紙は、少しでも長く針を内側に食い込ませるための白い肉だった。定期的に針の存在を知らしめて、ズキズキと痛みを伝える、捨て身の悪意――柳生としては、悪意のつもりはないのだが、客観的にみれば悪意そのものだろうと分かっていた。それでもやらずにいられない。こんな衝動も、全て、初めてだった。
 鉄橋が見えた。柳生は胸に並ぶくらいの手すりに足を掛けて、5センチほどの幅のところにひょいと立つ。見下ろした先には二本の鉄道。けれどちょうど柳生の下のところは、車両の整備のために場所が開けられていた。柳生はそれを知っていて来たのだが、念のためもう一度確認した。朝に電車が止まってしまうことにはなりませんね、と自分に頷く。笑みが漏れた。
 これが柳生の針だった。今までの全てがいとおしく思えた。初めてだった。全部の初めてをくれた人の泣き顔を思いながら、柳生は重心を前にずらした。きちんと頭が下になるのを確認してから、ふわりと体の力を抜いた。







初出:2005/01/21、日記にて
ページ作成:2005/02/18



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