『とんがった10のお題/ガラスの破片(仁王×柳生)



 期末テストの2日目が終わって、その日は午後がそっくり空いていた。もちろん翌日も試験があるのですることといえば勉強だけだったが、英数国の主要教科は終了していたので少しだけ気持ちに余裕があった。なので仁王くんが「判らないところを教えて欲しいからウチに来い」と言ったのに頷いた。それが現在、綺麗ではないが邪魔でない程度に片付いた仁王くんの部屋の真ん中で、引っ張り出された折り畳みのテーブルに差し向かいで勉強している理由だった。
 室内に響くのは、お互いのシャーペンの動く音と紙が擦れる音、ほんのわずかな衣擦れの音。しんと静まり返っているせいで、隣の家で掃除機を動かしているらしい音が分かる。そして本当にかすかだが、小さな子供の歓声まで聞こえてきていた。平日の昼間のありふれた情景が思い浮かぶそれらの音は、全く馴染みのないものだ。背にした大きな窓から射し込んでくる日差しといい、ごく当たり前のことに違和感を覚えて、さっきから何だか落ち着かない気分になっていた。けれど不快というのではなく。恥ずかしいのを承知で例えれば、不思議の国に迷い込んだアリスのような気分だった。自分はこの空間で間違いなく異物であるのに、奇妙に受け入れられている、そんな気がして仕方ない。
 明日の試験教科は古文と歴史で、両方ともどちらかと言えば自信がある。けれど古文の試験範囲をさらった後、歴史の見直しに取り掛かると気が引き締まる。きちんと覚えたつもりでも、所々で小さく取りこぼしてしまうのが歴史で、そのためまだ満点を取ったことがない。今回こそは何とかミスのないようにしたいと思っている科目だったためだ。
 ふう、と息を付くと、赤いセロファンを当てながら歴史の教科書を復習していた仁王くんがつられたように顔を上げる。
「どうしたと?」
「あ、いえ」
「ふーん?」
 慌てて何でもないと伝えれば、仁王くんは可笑しそうに笑ったけれどあっさり引いてくれた。そして自分の勉強に戻る。答えをひとつひとつノートに書き出して確認する手の動きが止まることは殆ど無く、少なくとも歴史で判らないところがあるようには見えなかった。古典が苦手なのかとも思ったが、仁王くんがそちらを勉強する様子はとりあえず無い。手持ち無沙汰ではあったが、自分から「何を教えよう」とでしゃばるもの気が引けてしまう。そのため再び、沈黙の中で向かい合って勉強会することになる。
 背中に当たる日差しは暖かいし、自分の勉強がはかどらない訳でもない。仁王くんの部屋の中は、ふわふわとした違和感を除けば理想的な位の環境だ。不潔ではないが雑然とした室内は、普段篭っている自分の部屋とは全く違っていたが、悪い感じはしなかった。

 変な感じだ、と何度目かに心の底で呟いた時。目に染みるような刺激を感じた。痛いような、くすぐったいような、うっとうしいような。反射的に目を閉じてみると、まぶた越しになにかチカチカと点滅しているような光が動いていた。自然と前屈みになってしまった姿勢に、いぶかしげな、そしてちょっと心配したような声がかかる。
「柳生?」
「……何か、光が」
「ひかり?」
 仁王くんはワタシに問うように言葉を復唱したが、この状態では答えようも無い。邪魔な光が直接目に入らないように気をつけながら、ほんの少しだけ目を開けてみた。細い視界に入るのは、手を止めてこちらを覗きこんでいる仁王くんだけ。午後の夕日に照らされた、彼の心配そうな表情は見慣れないものだったけれど、特におかしなものは無いようだった。ほっとして目蓋を持ち上げると、けれど、再び痛みに似た感覚が目を刺す。とっさに目を伏せた。
「痛い?目に何か入ったと?見せてみんしゃい」
 言葉と同時に仁王くんの指が頬に触れ、ワタシの眼鏡を上にずらした。痛くは無い、という言葉はあっさり無視されてしまう。少し腹立たしい。けれど折角の好意を無下に断るのも気が引けて大人しく肩の力を抜くと、目蓋の上を暖かい体温が触れてくる。仁王くんの指先があまりに丁重に動くので、自分が壊れ物にでもなったような気がした。
 本当に、ほんの少しだけ力が加えられて目蓋の薄い皮膚が押し上げられる。けれどその途端、ひどく強い光が目のはじっこでカチリと瞬き、今までで一番強い刺激を受ける。本能的に目を閉じると、仁王くんは逃げるように両手を放した。そしてその時、持ち上げた皮膚が閉じていくほんの一瞬に、仁王くんの左の手の動きに合わせて何かが光ったのを見る。何も考えずにワタシはその手を捕まえた。
「何と?」
「…………これは?」
 掴んだ手の、親指の先端、左端。まじまじと見てみると、日差しの角度によってその一箇所だけがキラリと光を弾いていた。なるほど、赤いセロファンシートをずらすため細かく動いていた指先が室内に差し込んだ光を反射して、偶然に自分の目に入ったのかと納得する。考えてみれば、突然の違和感は西日が室内に長く入るようになってすぐのことだった。
 けれど、何故仁王くんの爪の一部分のみが光を弾くのか、それは分からない。左の親指を両手で掴んで目の高さに合わせると、仁王くんはいぶかしげに眉をひそめて自分の指に視線を向け、そしてようやく破顔した。
「ああ、これのせいか。悪かったのぅ。気付かんかったと、忘れてた」
 そういえばそうだった、と仁王くんは笑い、親指の爪の先、ふちから少し真ん中によった所をとんとんと指差した。その場所が夕日を反射して、ちょうど陰を作っているワタシの体に向かい一筋の光線を作る。不思議な光景に目を奪われていると、仁王くんは笑った声で説明した。
 いわく、爪の中にガラスの破片が埋まっているのだと。小学校3年の理科の時間、実験中のに割ってしまったプレパラートを放っておいて忘れてしまい、実験レポートを書くのに必死になって勢いよく消しゴムに手を伸ばした時、割れたガラスが爪と肉の間に突き刺さったのだと。
「ほとんど取れたけど、ちょっとだけ残ったんよ」
 何てこと無いように、むしろ懐かしむように仁王区くんは自分の指先を撫ぜる。けれど、体内に異物を包み込んで平気でいられることは何とも信じがたかった。思わずゴクリと息をのむ。
「痛くは、ないのですか?」
「ほんとうに時々、たまにだけ」
「取り出してしまわないのですか?」
「爪を剥がして?そっちのが痛い」
「そうですか……」
 うん、そう。と仁王くんは笑うと立ち上がった。シャッ、とカーテンを閉めて室内から西日を追い出すと蛍光灯を灯す。これなら問題なかとね、と振り返り、座りなおす前にワタシを頭に軽く手を置いた。テーブルを挟んで、立って屈んだ仁王くんを見上げる格好になる。
「……何ですか?」
「ここが気に入ったと?」
 真顔で聞かれた問いは、まったく意外なものだった。質問の意図が分からず、何と答えたものか分からない。数度目をしばたかせて考える。けれどワタシの考えがまとまる前に、仁王くんが考えなくて良いよと言う。人に尋ねておいて何なのだと眉を寄せれば、仁王くんは宥めるように頭に置いた手をぐしゃぐしゃと動かす。子供を相手にするような仕草は慣れなかったが、意外に不快なものではなかった。
「考えんくて良いから、また教えに来て」
「教えると言っても、仁王くんはワタシに教わる内容など……」
「じゃあ内容じゃなくて態度。学年トップさまの勉強の仕方を勉強させて」
 決まりな、と仁王くんは笑うとワタシの頭から手を離し、さっさと座って自分の勉強を再開してしまう。シャ、シャ、と滑るペンの音に、何て勝手な態度だとは思っても邪魔をする気にはならなかった。ここで声を荒げて文句を言うのも間が抜けた感じがする。仕方なくワタシもテスト対策を始めて、けれど機械的に内容を覚える頭の反対側で思う。ワタシはそんなに苦しそうだったかと。
 さっきの仁王くんの勝手な言葉、あれはどう考えても仁王くんの都合を装ったワタシへの優しさだった。あの言葉だけでなく、今日この場にワタシをつれてきたことも同じだ。からかい調子で言われたはずの『学年トップさま』の言葉から、嘲る響きはまったく聞こえず、代わりに心配と焦りが響いた。仁王くんはワタシを心配しているのだと気付いた。まったく素直でないその優しさに苦笑が漏れる。
 ライバルたちが居並ぶ図書室よりも、まして両親の無言の期待が満ちる自分の部屋よりも、この場所はずっと落ち着く場所だった。馴染みのないワタシをそっけなく、けれど確かに受け入れてくれる。気を張らない空間に、ほっと息がつけた。
 相手にわからないようそっと、前に視線をずらす。教科書に向かって俯いた格好で、目が文字を追うのに合わせて睫毛が揺れている。まるで自分の世界に没頭しているようだった。けれどもう、随分前から知っている。今回のことはその再確認に過ぎないのだ。嫉妬も期待もなく、ただ居ることを認めてくれているのは、目の前の部屋の主その人なのだ。まったく素直でない人だから、いつも礼を言い損ねてしまうのだが。
 光を弾いて合図でも送ってみようか。
 ふと浮かんだ自分の言葉の馬鹿馬鹿しさに少しだけ笑いながら、そっと視線を下げた。






初出:2004/12/19、日記にて
ページ作成:2005/02/18



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