『とんがった10のお題/注射器(リョーマ×海堂)



 身体測定の日というのは、妙に楽しい。まず授業が潰れる。それだけで学生にとっては十分過ぎるほど素敵なものだが、測定そのものも中々楽しい。いつもの教室に見知らぬ機材が持ち込まれ別の場所のようになり、それを次々に巡って診察を受けていく。上手く空きを見つけて手早く回っていけば、その分早く帰れたりする。景品のないスタンプラリーのようなもんだなと、昨年初めて中学の身体測定を受けた越前リョーマは思った。そして、総じて悪くない印象を抱えて二度目の身体測定を迎えた訳だったが、実際は悪くない所ではなかった。空いた午後の時間――今日は部活動も中止だ――にどうやって愛しい人を誘い出そうかと浮かれすらしていた気分がどん底に落ちた。選択教室脇の廊下にずらりと並べられた椅子に座って順番を待ちながら、リョーマはドナドナな気分でため息をつく。
「…………採血なんて、去年はなかったじゃん……」
「無かったから、今年やんだろ」
 独り言を呟いたつもりだったのが、返事をもらってリョーマはぎょっとする。しかもその声は、最近一番よく聞いているかもしれない声だった。リョーマがうな垂れていた顔を急いであげると、目の前には青学男子テニス部副部長海堂薫がいつも通りの薮睨みで立っていた。もう一年を越える付き合いになるのでこれがこの人の素であることをリョーマは良く知っている。けれど周りにいたリョーマのクラスメイトたちは不機嫌そうな上級生の出現に、触らぬ神に祟りなしとばかりに静かに場所を移していた。海堂はそんな周りに気付く様子もなく、リョーマの隣から一つ空けた椅子に腰を下ろす。その微妙な距離に、リョーマはちょっと笑った。これでも立派な進歩だけれど、と。
「どうせなら隣に座ってくれればいいのに」
「ああ?何か言ったか」
「え、何も言ってないッスよ。それより先輩はココで座ってて良いの?」
 そらっとぼけたリョーマに少しむっとした様子だったが、聞かれたことに答えるべく海堂は頷く。この辺が好きだなぁと幸せに浸るリョーマに、口を開いた海堂は現実を見せ付ける。ずい、と左腕を突き出して、間接の内側をリョーマに見せるようにした。そうして右手で押さえつけていた脱脂綿を外し、内側の白い皮膚に浮かんだ小さな赤い点をさらす。そこからはポツリと赤い球形が盛り上がって、ゆっくり海堂の肌を伝っていった。
「採血終わったらしばらく座ってろって言われたんだよ。血ぃ止まったら脱脂綿そこに捨てて次行けって」
 なんてことないように海堂は続けたが、リョーマは海堂の肌を這うほんの僅かな赤にぞっとする。あまり見ることの無い体操着の海堂を楽しく眺めていた目つきは一変し、本当に嫌そうにリョーマの眉がしかめられ口元が歪む。海堂は不思議そうに越前を見た。
「…………血が駄目なんてこと、ねぇよな。あんだけ派手に怪我しても平気だったしな」
「血は、いんスよ、別に。血はね」
「じゃあなんで」
 分からない風に言葉を切った海堂は、けれど落ち着かなげに自分の腕をさするリョーマを見て気が付く。何だかとても意外な気がして、この一年で自分と背の並んだ後輩を海堂はまじまじと眺めた。
「ガキかよ……」
「うるさいっスよ。人間誰しも苦手なものはあるものっしょ」
 心の底から呆れたような海堂の声にリョーマはふてくされる。随分大きくなった体を縮こめるように、両手で頭を抑えてズルズルとうな垂れた。海堂は生意気な台詞は聞かなかったことにして、珍しく沈みきっているリョーマを飽きずに眺めた。けれどしばらく眺めても落ち込んだポーズは崩れなく、これはどうやら本当に嫌がっているらしいと理解した。海堂はこの少し特別な後輩が、往々にして物事を派手に言いがちであるのをよく判っているので、判断には余分な時間が必要なのだ。
「別に、大して痛ぇわけでもないだろ。筋肉注射と違って血管に針入れて血を抜くだけだぞ」
「…………うっわ、血管に針入れるって……」
 海堂は本気で嫌がっている後輩を気遣って言ってみたのだが、悲しいかな逆効果だった。リョーマは銀色の針が赤い血管に刺さっていく様子をありありと思い浮かべてしまい、ぶるりと身を振るわせる。そして更に体を硬く縮こめるた。その様子は情けないというか頼りないというか、とにかく憐れっぽくて、海堂は思わず吹き出した。フ、と漏れた海堂の息に反応してリョーマはガバリと体を起こす。そして未だたっぷり笑いの余韻の残る海堂を凝視した。
 さすがに気を悪くしたか。海堂はリョーマの視線を受けて、少し悪かったなと反省する。けれど予想に反してリョーマは怒るでもなくポカンとした顔で海堂を見た。
「うーわー……。今日は槍が降るね」
「どういう意味だ」
「テニスしてないのにアンタが楽しそうっスよ」
 ありえない、とリョーマは呟く。海堂は、オレは一体どういう認識をされているんだと眉をひそめた。リョーマは海堂の眉間には気付かず独り言のように言葉を続ける。
「That turned a misfortune into a blessing?」
 リョーマは自分の世界に入ったらしく、海堂にはよく判らない言葉だった。ぽろりと漏れた自分とは明らかに違う発音に妙な疎外感を感じて、本来謝らねばならない海堂のほうが不機嫌になる。そのためだろうか、普段なら放って置いてやるはずの小さな勘違いを、海堂は指摘した。
「……edじゃねぇだろ。まだ終わってねえぞ。お前はこれから採血だ」
 ボソリと低い声に、リョーマは固まった。海堂はそれを少し小気味良く眺め、大分可愛いなと思う。やはりこの後輩は、良くも悪くも海堂にとって特別だった。他の人間よりも、腹立たしくて、苛ついて、可哀相で、憧れて、可愛くて。海堂の感情に触れることが多いのに間違いなかった。
 ……そうして二人の間におりた沈黙が幾らもしない内に、リョーマの執行猶予が切れた。採血が行われている教室内から、「二年生入っていーよー」と声が掛かる。さらに強張ったリョーマを置いて、海堂は立ち上がる。不安そうに海堂を仰ぎ見た顔の情けなさに、海堂は再び笑いそうになる。けれどそれは何とか堪えて、代わりに突然、リョーマの頭をひっぱたいた。
「いった!」
「注射針はそれより痛くねぇよ」
「だからって」
 当然の文句を続けようとしたリョーマの言葉を塞いで、海堂は続けた。
「早く終わらせねぇと、先帰るからな」

 turn a misfortune into a blessing、
 災い転じて福となる。






初出:2004/12/13、日記にて
ページ作成:2005/02/18



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