『無意識な10のお題/瞬き』(リョーマ×海堂)



 じっと目を閉ざしぴくりともしない姿は死んでいるように見える。白いシーツの上で昏々と眠る海堂先輩。顔色はシーツの色に負けないくらい、ぞっとするほど白くて本当に調子が悪いのだと思い知る。落ちた目蓋に透ける静脈がビスクドールのようだった。いつも生きている熱気を放つ人だから、こんな作り物のような冷えた印象を持ったことなどなくて、だから余計に不安になった。ほんのかすかに上下する胸の動きを確かめては大丈夫だと自分に言い聞かせる。遠くで一時間目の終わりを知らせるチャイムが鳴っていたがこの場を離れることは出来なくて、古めかしい木製の椅子の背を抱きしめながら保健室のベットの脇、海堂先輩の隣にじっと座っていた。

 きっかけはほんの些細なこと。いつものように朝練があって、いつものようにメニューをこなしていた。ただ青学のダブルスの脆弱さに頭を悩ませる竜崎先生はその日、乾先輩と海堂先輩を指名して何か違う練習をさせていたのでオレは海堂先輩と打ち合うことがなくて、早めに上がった朝練のあと、海堂先輩にワンセットマッチを持ちかけた。挑発気味に誘い掛ければテニス馬鹿が受けないはずがなくて、周りの先輩たちは「よくやるよ」と笑いながらオレたちの試合を眺めていた。海堂先輩相手では必ず走り回るハメになるから、確かに我ながら朝練の後に「よくやるよ」とは思った。けれどお遊びの試合でも決して手を抜かない相手に気が付けば全力で打っていて、ギャラリーも真剣に見始めた。息が上がって苦しいのに気持ちよくてどんどん集中が増してくる。ひとつのボールを介して意識のなかに自分と相手しか入らなくなった頃、ギャラリーの誰かが「駄目だ」と言った。駄目なことがあるものかとその言葉を鼻で笑って渾身のスマッシュを返す。海堂先輩の足元をすり抜けて行ったボールに思わず笑みが浮かぶ。けれど次の瞬間、海堂先輩の体がぐらりと傾いで次いで膝が崩れた。一瞬何が起こったのかわからず、ただ条件反射のようにラケットを放り出しネットを飛び越えた。前のめりで地面に倒れこむ寸前になんとか自分の体を入れ込んで支えることに成功する。膝を地面に打たずに良かったとひとまずほっとし、それからオレにぐったりと圧し掛かっている海堂先輩を見た。
「かいどー先輩?……大丈夫?」
 恐る恐る顔を覗き込めば、海堂先輩は眉をきつく寄せて、息が上がっているのとは違う苦しそうな呼吸を繰り替えしていた。それでもオレの呼びかけに応えようとして何度も息をのみ込む。だらりと垂れた指先がオレの腕に当たり、恐ろしいほど冷えているのを知る。
「………………ああ。悪い……」
 海堂先輩はうめくように声を絞り出して、その冷えた手でオレの肩を押しやった。けれど上手く前も見えていない様子に、オレは支えの手を離すのをためらった。海堂先輩は低く唸るように何か文句を言ったけれど、聞き取れる言葉にはならなかった。どうしようかと迷ううちに、ギャラリーの先輩たちが寄ってくる。す、とオレよりずっと大きな手が伸ばされた。
「意地張るな。大丈夫な訳ないだろう。越前、ちょっとかしてくれないか」
「あ……、ッス」
 オレが下から支えることしか出来なかった海堂先輩を、乾先輩は軽くその肩に手を掛けると自分の体にもたせかけて簡単に支えてしまった。オレを退かせて海堂先輩の隣に立つと、軽々ととはいかなかったが、それでも不安定さの欠片もなく両手に抱え上げた。急な展開を把握しきれなかった海堂先輩は、乾先輩が歩き始めた頃にようやくボソボソと何事か言った。オレには何を言ったのか聞こえなかった。
「気にしなくていい。保健室で少し寝ると良い、竜崎先生と担任の先生には言っておくから」
「……ッス…」
 乾先輩の声しか聞こえないうちに、竜崎先生が慌てて近寄ってくるのが見えた。けれど海堂先輩は顧問の到着を待てずに目を閉じて意識を放した。乾先輩が抱えた海堂先輩の顔を覗き込み、額に手をあて、脈を計り、竜崎先生は眉をしかめる。
「貧血……で、無理に動いて酸欠もか。まあ一時間も寝てれば治るだろう」
「放課後の練習は大丈夫ですか」
「本当は休ませるんだが、何といってもこの子だからねぇ。下手に帰したら無茶な自主練で余計悪くしそうだよ。まあ、調子が良いようなら参加するように伝えておきなさい」
 海堂先輩と乾先輩と竜崎先生を不安げに取り囲んでいた部員たちは、顧問の軽口に心配はなさそうだとホッと笑みをもらす。乾先輩も練習云々のくだりで苦笑していた。竜崎先生は頑固な生徒の閉じた目に掛かっていた前髪を、そっとかきあげた。健康的な肌色の手が蒼白の額を撫で、それは悲しいほどのコントラストだった。

 海堂ね、今日は最初からあまり調子が良くなかった。越前が気にすることじゃない。
 オレは無自覚に海堂先輩を抱えた乾先輩が保健室に行く後を追っていたのだが、両手のふさがった乾先輩に扉を開けたり、不在の保険医の行方を捜しに行ったりと、なんやかんやと動いている間はそれに気付いていなかった。結局保険医は午前半休で不在であり、もうじき予鈴が鳴る時間だったことで乾先輩はもう教室に戻るようにとオレに告げ、それを受け付けず残るといえば乾先輩は苦笑して言った。
 だから戻りな、と促すのを一切聞かずに海堂先輩を包みこんだベットの隣に椅子を持ち出して座り込む。乾先輩は仕方ないなと呟くと、海堂先輩が起きたら竜崎先生に伝えるようにとだけ言って自分が教室に戻った。オレは少し勝ち誇った気分と、ひどく情けない気分で青白い横顔を眺めた。
 オレより大きな手、オレより大きな体、オレより強い力、オレより余裕のある喋り方、オレより海堂先輩を知っているその態度。乾先輩はテニス以外のことは全てオレに勝っていた。けれど海堂先輩と世界との接点はテニスで、だから海堂先輩は乾先輩ではなくオレを選んだ。オレは選ばれて乾先輩は選ばれなかった、というかスタートラインにすら立てなかった。だからこその優越感、けれど敗北感。海堂先輩はオレにはもたれず自力で立とうとしたが乾先輩には素直に支えられていた。オレは海堂先輩に甘えることはできても海堂先輩を気遣うことができない。「今日は最初からあまり調子が良くなかった」、そんなことは知らなかった。
知らずに挑発して無理をさせて、結果が目の前の死んだような海堂先輩だった。法律なら知らないことは罪ではない。けれど心は鉛を飲んだようだった。自分のことしか見えずに相手を傷つけること、これは罪以外の何者でもない。ぴくりとも動かない海堂先輩は、一秒ごとにオレの罪を大きくしていた。保健室の扉の向こうで予鈴が鳴り、ついで本鈴が鳴り、一時間目が始まった。

 十分休みの間の廊下の喧騒にも、海堂先輩は目を覚まさなかった。二時間目が始まった。オレは海堂先輩以外だれも居ない保健室で泣きそうだった。少しずつ赤みのさしてきたように見える頬も、願望がそう見せているように思えた。上下する胸の動きすらニセモノのように思えて白い上掛けの上から何度も手を当てて、けれどその手の感触もニセモノに思えた。何も気付くことが出来なかった自分の五感の全てが怪しく思えた。
「かいどー先輩」
 不安で声が漏れた。けれど眠る人に声は届かなくて無駄に広い空間に散った。
「……かいどー先輩」
 じっと見つめていると、声に反応してほんの少しだが睫毛が揺れた、ように見えた。あるいは空調で揺れたのかもしれないと考えて、けれど期待を込めて見つめた。もう一度、震えた。
「海堂先輩?」
 ふ、と睫毛が震えを止める。そしてゆっくり目を開けて、閉じて、開けた。ぼんやりオレと目を合わせると、ゆっくりとではあるが眉間にシワを寄せた。
「……むかつく。次はぜってー勝つ」
 可愛くない、けれどこの上なく海堂先輩らしい言葉が出た。寝起きのかすれた声で低く唸ると再び目蓋が落ちていく。青白さを残した頬はまだ眠りを必要とするようだった。けれど目蓋がほとんど落ちたまま、海堂先輩が言った。
「……テメェは勝ったんだから、笑ってろ。泣かせるのは、負かせた時のが、いい……」

 そのままスウッと呼吸が寝息に変わっていって、オレにはまた長い待ち時間が課せられた。けれどオレの目の前で眠るのは暖かい生身の人で、それを眺めるのはただ幸せなことだった。甘やかされるばかりの自分を少し苦く噛み締めながら、けれど今はまだその立場を甘受していくしかないようだった。





初出:2004/12/03、日記にて
ページ作成:2004/12/08



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