『無意識な10のお題/独り言(仁王×柳生)



 柳生が読むのはミステリー。それも最近流行の新本格なんかではなく、たとえば時刻表トリックなんかの昔ながらのミステリだ。海外モノも好きらしく、時々辞書をひきひき分厚いペーパーバックと格闘していたり、する。「ミス・マープル」シリーズだとか「猫は…」シリーズだとか、これは読みやすくて面白からと何冊か押し付けられたことがあったが結局1ページも読まないで返してしまい、オレは大いに柳生を失望させた。それ以来柳生がオレに本の話題を振ることはなくなったからきっと対象外と認定されたのだろう。それは全く正しい判断だとは思うものの、柳生が幸村あたりと本を肴に話すのを面白くないと思って見ているのだからオレも勝手なものだ。分かっている、これはオレの子供っぽいワガママだ。けれど花の中学三年生、子供で何が悪いだろうか。
 オレは黙々と本を読み続ける柳生の横顔をじとりと睨みつける。けれど柳生はこれっぽっちも気付きやしない。凄まじい集中力はテニスの時と変わらなくて柳生らしいが、隣に恋人が座っているのにもう20分以上気付かないというのはどうだろう。
 父母会のため授業は午前中で終わり、当然部活も休み。じゃあ下校デート、というのは学生カップルにとってごく自然な流れで、間の悪いことに掃除当番に当たったオレに柳生が「図書室で待ってますね」と言ってくれるのも普段どおりのやり取りだった。けれど困るのはその後だ。だいたい何時も、柳生は図書室の定位置で手持ちの文庫か新書を読んでいる。学生の掃除なんて高が知れているから、30分も待たせることはなくて、15分から20分程度遅れてオレも図書室に向かう。この15分から20分、というのが曲者なのだ。
 柳生いわく、小説を読み始めて5分以内ならば切り上げるのに支障はないらしい。まだ“世界”に入っていないという。けれど5分を超えた辺りから次第に周りの音が遠くなって視界もページのみに固定されて、物語の中の音が聞こえ情景が見えてくるそうだ。そうなると自分の周りで何が起こっているのかは何もわからなくなって、物語が佳境に入れば携帯電話のバイブレーションすら気付かない、と言う。
 この言葉が本当なのだとしたら、今オレに出来ることはただ柳生を横で眺めていることだけだった。柳生が両手で押さえている紙の束のほとんどが右に寄っていて、左側にはあとちょっと。ということは、話はクライマックスもいいところなのだろう。1分おきぐらいに柳生が凄い勢いでページを繰っていく。きっと、読み終わるまでオレに気付かないことぐらい、簡単に想像出来た。オレは何だか気が抜けてしまって、図書室の長机にべったりと頬とつけて体を倒した。そのまま柳生を見上げる。
 立海テニス部でレギュラーをやっている限り、デートなんて出来る機会はほとんどない。放課後も休日も部活で、たまに部活の無い休みの日があったとしても会えるなんて限らない。立海は付属ではあるがそれなりに授業もきちんとしていて、つまり課題も山のように出されている。まともな成績をキープしたいと思えば最低でも提出物だけはクリアしておく必要があって、その上柳生は医学部志望だ(本人は言わないが)。自由になる時間なんて、本当に少ない。だから今日は、数少ないチャンスだったのに。食い入るように本を読む柳生を眺めながら、思わずため息が出た。
 体を揺すぶったら気付くだろうか。ちょっと足を蹴飛ばしたら。そんなことも考える。けれど実行には移せない。自由な時間をやっと見つけて柳生が本を読んでいるのだ。それはもう夢中になって。邪魔をするのは無粋すぎて気が引けた。それにこうも思う。もしかしたら柳生は、オレと一緒に居るのよりひとりで本を読んでいる方が好きなのじゃないか。律儀な性質だから、付き合っているという義務感でオレと一緒に居るのじゃないか。それは一度思いついたら足が竦んでしまうような不安だった。こんな弱気な自分は初めてだった。柳生は隣に居て、ほんの少し手を伸ばせば触れられる、体温すら伝わるほど近くなのにやけに遠く感じられる。小説に没入する柳生のまわりには透明で固い膜が張っているようだ。
「なぁ」
 オレは小さく声を掛ける。図書室で周りの迷惑にならないくらい小さい、けれどいつもの柳生なら気付くくらいの声。けれど今の柳生には当然届かない。分かってやってみたのだが、実際に全く気付かれないのは結構心が痛かったりする。
 オレを見ない横顔が、氷のように冷ややかならばまだ良かった。オレと居たほうが楽しいんだろうと思えるから。けれど柳生は食い入るように熱心にページを見つめ文字を追い、こころもち頬が上気してさえいる。オレは柳生にこんな顔をさせたことがあるだろうか。
「……オレのがつまんないか」
 自問自答して、弱りきった心をさらに痛めてしまった。柳生はオレがどうこうなんて何も言っていなくてただ本を読んでいるだけ。オレの来たタイミングが少し悪かっただけ。そう思って沈み続ける気分をなんとか引き上げようと試みるも、柳生が目に入ってしまえば無駄な努力だった。頭の半分は空しい独り言はやめときゃいいのにと呆れながら、もう半分がどうしようもない不安に押されて口を動かす。
「……オレを見んしゃい」
 見るわけがないのは知っていたが。

「そういう高圧的な物言いを、ワタシは好みません」

 柳生の左手にはまだ数ページ。けれど言葉は返されて、独り言ではなくなった。
「ああ、でも。もしかして、お待たせしてしまいましたか?」
 ほんの数ページ。けれど一番良いところだろう数ページ。柳生はそれをあっさり閉じた。うつ伏したオレを見下ろして笑う。オレのになった視線に、今までの不安はさあっと消えた。
「いや……別に。そんなに。お前を待たせとった時間のが長い」
「確かに、長かったですけどね」
 柳生は一度言葉を止めた。何か思い出すように笑う。
「あなたを思って待つのは、そう悪くないんですよ」


 オレは頭がぼうっとした。何をどう応えたかもよく分からない内に、気がつけば柳生は文庫を鞄にしまいかけている。赤いしおりが最後のほうにポッチリと見えて、暗い鞄に消えていった。







初出:2004/11/27、日記にて
ページ作成:2004/12/08



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