息が出来なくなって謙也は机にうつ伏せた。放り出した手の先から転がるシャープペン、カツ、と堅い音を立てて机から落下する。夜の12時を回った家の中は静まり返って、その音は家中に響くようだった。謙也の部屋の真下にある両親の寝室にも届いただろうか。真綿で首を締め付けるように優しい母親は、彼女の願い通り文武両道に励む息子が自慢でならないらしかった。うっかり今の物音が聞こえでもしたら、喜んで起き出して夜食でも持ってくるのだろう。優秀な息子を応援する、献身的な母親としての彼女自身に酔って。
 謙也は自分の想像の確かさに吐き気がする。母親が嫌いな訳でも、勉強が嫌いな訳でも、ましてテニスが嫌いな訳でもない。けれど全てが合わさると、謙也は息が詰まるような気持ち悪さでいっぱいになる。夜中にひとり、部屋に居るのは最悪だ。何をしていても、母親のテリトリーで自分が存在しているのだと強烈に主張されているようだった。勉強もテニスも、謙也自身の意思のはずなのに、全てが彼女の意思で行われているようで、時折全て投げ出してしまいたくなる。そうして息が出来なくなるのだ。
 謙也の肺は必死に酸素を求めて体中に訴えるのに、反抗する体はうまく空気を吸い込むことが出来ない。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせながら、謙也は細かい呼吸を繰り返す。けれど細かく痙攣する体はままならず、苦しさに涙が出る。Tシャツの胸元を破れるほど掴んでいた、神経質な指が、無意識に革の筆入れに伸びる。滲んだ視界の端に銀色を見つけて強く掌に握りこんだ。力がこもって銀色の尖った先が謙也の皮膚に食い込む。それでも謙也は掌を緩めなかった。
 堅い銀色の塊の冷たさが、掌からゆっくり全身に伝わっていく。熱く強張った体が手の先から少しずる冷えて全身の緊張が解ける。うつ伏せて脂汗を滲ませたまま、謙也はふぅと息を吐いた。次いで肺に流れ込む空気。ようやく正常な呼吸を取り戻して、ぐったりと全身を弛緩させた。このまま眠ってしまいたい位の疲労を感じながら、けれど掌の中で何かが滑り落ちる感覚に飛び起きて、その拍子に参考書が机の端に押し出され、謙也は慌てて手を伸ばす。全てを机の真ん中にまとめて、掌を握りなおして、自分の慌てように少し笑った。力を抜いて椅子の背に体を持たせる。
 謙也は堅い銀色の、彼のお守りをデスクライトにかざした。何の飾りも無いチープな鍵。今時珍しいくらいシンプルな形のそれは、独りの夜に耐えかねてフラフラと出歩く生徒を見つけてしまった間の悪い顧問が彼に寄越したものだった。オレンジ色の光を弾く単調なギザギザのふちを眺めていると、ふとあの夜の遣り取りが思い出されにて、謙也は笑えてしまう。
 日付もとうに変わった夜、さざめいて歩く若さに任せた集団とすれ違った瞬間、その真ん中でひときわ浮かれていた金髪が突然腕を掴んできたのだから。何の言い掛かりをつけられるのかと身構え、自分より低い位置の顔を睨みつけようとして、自分が失敗したことを知った。俺だって見つけたくなんぞ無かったわ、と顔に描いたテニス部顧問は少しだけ顔を見合わせた後、謙也の腕を離さないまま周囲を抜け出して彼の部屋へ連れ帰って、ひとりでふらつくよりはマシだとその部屋の鍵を投げ付けた。少しばかり面倒臭そうに、それでも何も尋ねることはせず、帰るときは鍵を掛けるんやで、とだけ申し渡すと、オサムはそのまま敷きっぱなしの布団に潜り込んで、謙也が何を聞く暇もなく寝付いてしまった。展開の速さに呆然としながら、けれど彼の寝息を聞きながら朝まで過ごしたあの数時間は、酷く寛いだ落ち着いた、もしかしたら安らいだ時間だった。そして両親が起きる時間に合わせて彼の部屋を出た時の、赤と水色が混ざり合った空の色。
 記憶に焼き付いているその二つを再生する度、安堵と飢えが一緒になって謙也を満たす。ただ今日はその天秤が少しだけ、飢えのほうに傾いた。謙也は改めて、オサムの部屋の鍵をまじまじと見つめる。特に深い意味を持って渡されたものではなかった。むしろ酔った勢いだったかもしれない。けれど鍵は間違いなく謙也の掌にあって、つまりあの二つを再現することはそう難しことではなかった。謙也はライトに照らされた鍵をもう一度だけ見つめ、そして立ち上がった。なれたジーパンを腰ではいて、ウォレットチェーンの先に鍵を引っ掛ける。鍵を回す物音には気をつけんとな、そう独り言を呟いて。



(20060826)



 謙也→オサム。オサムちゃん遊び人設定続行中。敷きっぱなしの布団の周りは本と雑誌の山でうっかり寝返りを打つと雪崩れるんです。