fawn on you, but.


 九月に入ったというのにひどく暑い、テニスコートにゆらりと陽炎がたつような日だった。夏の合宿の、真昼の炎天下に比べれば、放課後の練習はそれほど辛い訳じゃない。判っていても一度涼しさを覚えてしまった体は足元から立ち上る熱気に耐え切れず、謙也はボール集めの途中で体を起こした。とたん、軽い眩暈に襲われる。遊園地の古い乗り物のように嫌な浮遊感。頭だけぐるぐると回っている感覚に吐き気を誘われながら、謙也は目を眇めた。嫌になるくらい鮮やかな青空を背景に、湾曲して見えるフェンス。これは本当に不味いなと、他人事のように思ったが、暑さなど気にする素振りも無くヒョイヒョイとボールを拾い上げていくレギュラーたちの手前、倒れこむ訳にはいかなかった――自分の、この無意味で根拠の無いプライドの高さが、謙也は嫌いだ。
 全てが弧を描いているような視界のなか、ゆらり、と黒い陰が入り込んでくると、目蓋が自然と落ちてきた。そろそろ目にもきたかと眉をしかめる。萎えたがる膝にもう一度力を込めて、それでも震えてしまう。もう殆ど開かない目がフッと闇色に隠される。ああもうこれは駄目だな、痩せ我慢が無駄になったな。内心呟いて謙也は苦笑いしたが、もう表情すら思い通りに動かず実際は唇を歪めただけだった。
「謙也、辛いんか?」
 遠くなりかける意識に端に、ええよ、よっかかり、と低い声が響く。目を隠すように添えられた掌はひんやりとして、そこから篭った熱が抜けていくようだった。煙草でかすれた声が耳のすぐ傍で聞こえる。後ろから抱えるように回された腕に、思わず力が抜けてしまうのを、声の主は言葉通り支えてくれる。
「……ごめん、オサムちゃん、オレよりちっこいんに」
「おお?言いよるのぉ。捨てるどガキ」
「えらいすいませんですもう言いませんに許したって」
 でもホンマ無理、と甘えるように呟けば、判っているというようにグシャグシャと前髪を撫でられた。小さい子供をなだめるような仕草だったが不思議なくらい安心する。
「おお〜〜白石!ちょっろっと謙也借りるでー」
今日初めてコートに響く顧問の声に、呼び掛けられた部長だけでなく部員の殆どが彼らを見た。いつも通りの軽さで謙也にふざけかかっているような顧問だったが、見慣れない服装のせいでぱっと見は別人のようだ。誰もがおや、と思い、それに先陣を切って騒ぎ立てたのは彼らの愛すべき一年だった。
「なんやぁオサムちゃん、えらいめかしこんでぇ!ガッコさぼってデートでもしてたん!?」
 コート中を走り回り、ガットの上に山のようなボールを積み上げた金太郎が大声を上げて飛び跳ねる。オーバー過ぎるはしゃぎようは、気の合う顧問が不在だった寂しさの裏返しだ。オサムの元に弾むように駆け寄ってくるものの、ガットの上のボールのピラミッドは崩れる気配もない。オサムは目を細めてそれを確認しながら、汗ばんだ金太郎の頭に手を置いた。金太郎は気持ち良さそうに笑う。
「んー?カッコエエやろう?」
「えぇーワシは嫌やで。いつものがエエよ。そない綺麗な格好してはるとオサムちゃんと違うみたいや」
「何やぁ、オレはいっつも汚いっちゅーんか?失礼なやっちゃなぁ」
 軽口を交わしながら、オサムは謙也を支えるのと反対の手でぐいぐいと金太郎の頭を撫でる。楽しげに金太郎をあしらう合間に、コソリと、そろそろ歩くで、ちょっと頑張り、と謙也に耳打ちをした。半分動きが止まったような頭で、時折こんな大人らしい切り替えを見せらるからオサムが分からなくなってしまうのだと、謙也はぼんやり思う。
「まーコイツのジャージにお色直ししてきたるさかい、もうちょっと待っとれや」
「サボリのくせに偉そうやなあ」
 オサムがポンポンと、飼い犬をなだめるように小さな頭を撫でて離れようとすると、誰かが歩調を合わせて隣に並ぶ。するり、と滑り込むような、自然でそつの無い仕草。おう、遅うなって悪かったな、とオサムが短い沙汰で返すのに、それが白石だと分かった。
 白石はいいえ、特に問題はありませんでした、と模範的な答えをした後、少しためらうような間を空けて言った。
「センセ、……なんやご不幸でも?」
「まあ、ちょっとな。落ち着かんだろうけど、気にせんと」
「ハイ」
 良い子の返事のまま白石の気配が遠くなる。ジリジリと剥き出しの肌を焼く太陽と、心地よいオサムの体温と、彼の掌に隠された視界。謙也は今はその掌が憎らしかった。自分のすぐ傍で交わされたにも関わらず自分独り取り残された白石とオサムの遣り取り。オサムの手が謙也の世界を遮ってくれなければ、その肩が謙也の体を支えてくれなければ、きっと今ごろコートに突っ伏していただろうと分かっていても、今だけばそれを振り払いたくて仕方なかった――もっとも、実際には、そんなことをする元気は欠片もなかったのだが。
 キイイ、とアルミの扉の軋む音がぐらつく頭に響く。コートを出るのだ。
「謙也、足。段差あるで、ちゃんと上げ」
「……ん」
 当たり前のように言葉を添えてくれるオサムは、どれだけ遊んで見えても顧問で教師で、大人だった。


 どさ、と少しばかり乱暴にベンチに落とされた。頭を掻き回されるような眩暈が再びやってきて謙也は呻いたが、わざとらしいため息をついて肩をほぐす顧問には聞こえなかったようだった。死ねクソジジイ、と、先ほどの殊勝な自覚をひっくりかえす罵倒が喉の奥までせり上がる。けれど結局発せられなかったのは、腹の上に落ちた二本の500ミリペットボトルとオサムの姿のせいだった。部室の小さな冷蔵庫に在庫してあるペットボトルは、当然のことながら冷たくて重い。突然の衝撃に謙也はウッと息を詰まらせた。
「一本は飲む、もう一本は首の下に入れとけ。あんま一気に飲んだからあかんで」
 おまえは何やあぶなっかしくて怖いなぁ、と笑いながらオサムはその辺に転がっていたテニスバックを2・3個積んで、謙也の足の下に突っ込む。そして無造作に謙也の額に手をやって体温を確かめてから、スーツのポケットを探った。くしゃくしゃのソフトケースから煙草を取り出し、灯し、深く吸い込む。見慣れたはずの顧問の仕草は、けれど髪を撫で付け顎も綺麗にあたってある横顔とコントラストが眩しいブラックスーツのお陰か、別人のもののように目を引いた。そしてよくよく見てみれば、謙也の眩んだ視界のせいだけでなく、オサムの顔は青褪めているようだった。真夏に喪服を着込んでいるにも関わらずだ。
 いつもと違う顧問をまじまじと見つめてしまった視線に気付いたのか、オサムは謙也を見て口の端で笑った。少し馬鹿っぽい、そして大らかな、まだ子供の部員たちを安心させる普段の笑顔とは違う、自嘲気味な笑顔。それは尖っていて儚くて、半分空ろなままの謙也を落ち着かない気持ちにさせる。
「辛気臭くて悪いなぁ」
 無理に明るく作ったようならしくない声。謙也は痛ましさに顔をしかめた。それを見てオサムは苦笑を深くする。
「そない顔すんなや、校門辺りからずーっとみんなの視線が痛かったんやで。縁起悪いカッコしてきて申し訳ないとは思うけど、なあ、そこまで邪険にせんでもエエやろ?」
「……今日は、どないして遅れてん」
「んー?友達のとこ、お別れに行ってたんや」
 最後やからちょっと我侭言わして貰ってん、まぁお前は気にせんと寝とけ、そう言ってオサムはポンポンと二の腕の辺りを叩く。骨ばった手から幼い子供をあやすような体温が伝わった。
 顧問の指示に従って目を閉じながら、謙也は故人を考える。形式が楽な通夜でなく、色々と面倒臭い葬式のほうに参列するのだから、親しい人だったのだろう。けれどもう戻ってきているのだから身内ではないし、遠くに住む人でもない。学生時代の友人や恩師、そんなところだろうか。オサムがわざわざ堅苦しい場に出席して、そして酷く落ち込んでいるのだから、とても重要な人だったに違いない。
 ごく当たり前の悲しい気持ちが湧き上がるのと一緒に、謙也は見ず知らずの故人を可哀想だな、と思う。きっちりした黒いスーツを着て身なりを整えたオサムは、ちょっと驚く位に見栄えがした。血の気の引いた肌もあって、黙っていれば綺麗な人形のようだった。それこそ校門からテニスコートまでの距離、周りの目を一手に集めるくらい。親しい人なら窮屈そうな彼を見て大笑いしたのだろうなと思うと、少し可哀想だった――亡くなっているのだから、それどころでは無い話だが。
「なあ謙也、お前、練習着の替えって置いてへん?」
「…………んん?あるけど」
 不謹慎な想像の真っ只中に突然声を掛けられて、思わず謙也はびくっと体を竦ませた。ワンテンポ遅れた返事に気付いたオサムに、あ、起こしたか悪い、と短い謝罪を寄越されたのに謙也は何となく居た堪れない。気まずさに視線が泳ぐが、オサムは気付かず言葉を続ける。
「ちょお、それ貸して。こんなカッコじゃ練習もよう出来んわ」
「あぁ、使うて下さい」
「おおきに。助かるわ。……てコラ、お前は起きんなや、大人しくしとり。勝手に漁らせて貰うで」
 言うなり顧問はガコンッ!と謙也のロッカーを蹴飛ばした。再び目を閉じかけた謙也は、ベンチを響いて伝わった騒音に飛び上がる。丁度オサムが器用に扉を開けて、ロッカーに首を突っ込んだところだった。
 年代もののロッカーはもう大分、開き具合が悪い。扉の下のほうを蹴って蝶番を緩めた隙にこじ開ける技はテニス部員に代々受け継がれてきたものだが、教師までその流れを汲んでしまったのは初めてだろう。謙也は半身起こしたまま、あっけにとられて規格外な顧問を見る。
 言葉通り遠慮なく謙也のロッカーを引っ掻き回したオサムは、ブランドの袋に入った置き服を発掘すると、さっさと喪服を脱いでしまう。無造作に晒された背中の、その薄さに謙也はぎょっとした。
 成長期のアンバランスな細さとは違う、もう出来上がった体だと分かるのに、謙也には骨と皮にしか見えないくらい尖って細い。生徒と一緒にテニスコートに立つ肌は焼けて、真っ直ぐな背骨に頼りなさは無かったが、病気かと思うくらいに肉が無かった。この体のどこに連日の練習に付き合う体力があるのかと謙也はまじまじと見つめる。
 けれど顧問は生徒の凝視に気付くことなく、手早く着替え終えてしまう。一回り大きな謙也のシャツもハーフパンツもオサムの体には余っていたが、本人はぎゅっとシャツの裾を縛ってヨシとしたらしい。手荒く謙也の頭をかき回すと、良くなったら戻ってきや、と笑って部室を出て行った。
 ベンチに横たわったまま簡単にあしらわれて、むっとする間も無く謙也はドアの閉まる音を聞いた。プライドを刺激しそうオサムのやり方だったが、むしろ謙也は額に感じた冷たい肌の感触にほっとしていた。体調の悪さが心を弱くしているのかも知れない。いつもより過剰気味なオサムのスキンシップはそれを分かっていてだったのかもと気付いて、謙也は何となく嬉しいのとのと一緒に、妙にいたたまれなくなった。
 青褪めた頬をした人に甘やかされ、それに甘えて。オサムは顧問で教師で、気安いふりをして本当は謙也よりずっと大人だけれど、余裕十分の笑顔を向けてくるけれど、シャツとハーフパンツの裾から伸びた細く骨ばった手足はただ甘えるだけの自分へ戒めを告げるようだった。
 頭がぐらぐらする感じが戻ってきて、謙也はゴロリと丸まるように寝返りを打つ。この感覚が必ずしも体調のせいだけでないのは、何となく分かっていた。心と体が求めるまま目蓋を閉じながら、もっともっと、強くなりたいと願った。



(20061112)



軽いノリできっちり顧問なオサムちゃんに甘えてるけど甘えたくない思春期な謙也といつもよりちょっと油断ぎみなオサムちゃんでした。尊敬と淡い思慕ってところでしょうか。もっと本気に恋するモードに入った謙也も書きたいです。


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