愛以外の、全てをあなたに




 小春日和。
 BGMはスースーという軽い寝息。傍らに人の体温。テニスコートが見下ろせる、少し高台の芝生に、滝は座り込んでいた。ブレザーやスラックスにつく枯れ葉を一つ一つつまんでは払い捨てる。ついでに隣の人の髪についた分もそっと取ってやる。明るくした髪に絡んだ薄茶の枯れ葉は、紛れてしまって存外見つけにくい。ついつい真剣になって、そんな自分に気付いて、滝はふと笑う。よく手入れされた真っ直ぐの髪がさらりと流れた。頬に落ちた髪を片手でかきあげながらそうして、思う。
 明るい日差し、暖かい秋の午後。最近冷たく感じられる風も今は凪いでいる。体が軽く動く日。まさしくテニス日和。なのに、なんでオレは、こんな所にうずくまって、他人の髪についた枯れ草を取るのになんか一生懸命になってるんだろうと。
 指先がつま先が、体中が、さっきからずっとうずいていた。そういう自分を滝は知っていた。視線を真っ直ぐ伸ばして少し下げれば、先には、広い緑のコートと縦横に走る白い線がある。そこにユニフォーム姿の部員たちがわらわらと、集まっては散る。集まりの中心に、跡部がいた。
 異常なほど多くの部員を抱える氷帝硬式テニス部において全員に正確な内容を伝達したいと思えば、部長が何度も繰り返すのが一番確実なのだ。下手に学年間で回しておけ、などといったら伝言ゲームになってしまう。実際去年まではそんなトラブルがぽつぽつあった。今のやり方に変えたのは跡部だ。
 跡部は自信家でナルシストぎみで、時に部員たちに無理を強いることがある。しかし彼は本質的に『良い』部長だ。強さだけではない度量があるからこそ、部長に選ばれ、またやっていく事が出来るのだろう。滝の笑顔が自然と深くなる。
「やっぱやるねえ、あとべ…」
 いちおうまだ部員であるから、跡部の話を聞き逃すのはヤバイだろうか。そんな考えが頭をよぎる。滝はそろりと立ち上がった。隣に丸くなって眠る人を気遣って、ゆっくりと、静かに。かるく彼の頭に触れいていた手を、本当にそっと、放した。しかし。
「なんで?」
 ぎゅっと、掴まれる手首。起こしてしまったとも起きているとも思っていなかったが、滝はあまり驚かなかった。片手で背を起こした慈郎が、まだ半分眠ったような目で、滝をじいっと見上げていた。黒目がちで、いかにも純粋そうで。滝は半ば癖になった笑顔で相手を見下ろす。
「一緒にいてって、オレ言ったじゃん」
 なのに、なんで、いっちゃうの。寝起きそのものの擦れた声につたない口調。可愛らしいと言えるかもしれない。しかし、手首をつかむ力は酷く強い。そう体格が違う訳でもないのに、慈郎の指は滝の手首にくるりと回ってしまっていた。滝の指先はやんわりと痺れはじめる。まどろみ半ばの意識で、隣の体温をつなぎとめようと力を込める。それはもう、本能の域に近い行動に思えた。滝は、笑う。
 慈郎は滝の手を腕ごと抱きこんで、ふああ、と大きなアクビ。そして再びコロンと寝転がった。つられて体勢を崩した滝は、そこでやっと少し慌てる。笑って、困った声で言う。
「ごめん。でも、跡部が何か言ってたし。ちょっと行こう?」
「滝は、跡部が好きだね」
 慈郎は目をつぶったまま、寝言のように呟く。それから更に深く両腕で、滝の腕を抱きしめた。体の中心に持っていって、腕を抱きこむように丸くなる。胎児の姿勢だ。滝は自然、片方の肩を芝生につく。目に掛かった髪を払いのけながら慈郎の言葉を反復した。
「オレは慈郎が好きだよ?」
「知ってるけどー。でもでも跡部はもっと好きー、でしょー」
 拗ねているのか眠たいのか、よく分からない間延びにした口調。相変わらず子供のようだと思ったが、言葉の中身はひねくれていて。眉をしかめて固く目を閉じ、滝の腕にしがみつく姿に、困ったな、と滝は思う。
「オレは慈郎が好きだよ」
 腕をとられた方の肩に体重を移し、滝は慈郎に覆いかぶさるように姿勢を変えた。半身の体温を、ぴったりと相手に寄り添わせる。近くなった慈郎の耳に、滝は同じ言葉を繰り返した。手持ち無沙汰な残ったほうの手は、慈郎の髪の上に。脱色のしすぎで痛んだ明るい髪はパサパサと乾いていて、くせも好き放題に跳ねている。スポーツをしているとは思えない整った形の滝の指を、痛んだ髪がちくちくと刺激する。慣れない感触が楽しくて、滝は指先で慈郎の頭を撫で続けた。オレは慈郎が好きだよ、と柔らかく何度も繰り返して。
 頬を摺り寄せられたシャツごしに息が掛かって、滝は二の腕のあたりがじんわり暖かくなるのを感じていた。慈郎の呼吸は忙しないままだったから、彼が眠っていないのを、滝は分かっていた。
 体勢は変えないまま、指も言葉も変わらず慈郎をなだめるまま、滝は視線をとおくに下ろしてコートを眺めていた。跡部はまだ、所々で部員を集めては何事か言ってまわっている。あと2・3回は同じ説明をくりかえすのだろう。彼の意外な根気強さを、滝は改めて好ましく思った。離れて知ることもあったのだと、現状をすこし嬉しく思う。
 そうして、慈郎が丸くなってからいくらも経たなかった時。好きだよ、と優しく唱えていた滝が、「あ……」と何かに向けて声をもらした。髪をなでる指も止まる。目を閉じても眠ることが出来なかった慈郎は、何故だか解放された気分で目をあけた。こちらを見ているとばかり思っていた滝はしかし、顔は慈郎に向けてはいたが、視線は無理な形でとおくに伸ばされていた。慈郎は苛々とする。きっと眠れなかったせいだ、と抱きしめている滝の腕をグイと引いた。
「っ、わ!」
「なに?」
 慈郎が目をあけたことに気付かなかった滝は、突然腕をひかれて体勢を崩す。肩が抜けるような衝撃と共に、慈郎の上に倒れこんだ。滝は当然、驚き、慌てる。瞬時に慈郎の体を下敷きにしたことが分かって、試合中でもこれ程動けたことは無いくらいに素早く、自分の体をずらす。もっとも滝は初めから横たわっていた上、彼を引き倒したのは下敷きになった本人であったので、慈郎に被害があるわけが無かった。むしろ、滝の過剰すぎる反応に、酷く驚いた。
 瞬時に飛び退り、慈郎の体になんともないのを見て、滝はほっと息をつく。自分がかなりみっともなく芝生に転がったのも、慈郎が何かたずねたのにも、そもそも何故突然腕をひいたのか問いただすことも、滝にはどうでもよいと思えた。そもそも思うことすらなかった。綺麗な髪に枯れ草をつけたまま「良かった」とゆっくり笑う。慈郎は、訳が分からない、と顔に書いていた。それに気付いて、滝はようやく慈郎の目を見る。
「跡部が打ってる。いま行けば、相手をしてもらえるよ」
 滝は、本当に笑顔で、言う。嬉しそうだった。身だしなみを気にする彼にしては、乱れた髪も、制服についた沢山の枯れ葉もそのままにしていて、それが、どれだけ彼が喜んでいるのか知らしめた。
「マジでっ!」
 がば、と慈郎も跳ね起きた。眠気を引き摺って半分閉じられていた目はすっきりと開かれる。人が変わったような勢いで慈郎は立ち上がる。掴んだ滝の手首はそのままであったから、つられて滝も立ち上がった。慈郎は傍らに投げ置いてあったラケットを素早く拾い上げ、そのままの勢いでコートに向かおうとする。滝は笑顔を変えずに、慈郎の手を払った。
「え」
「オレ、制服だから」
 当然滝も引っ張っていくつもりで駆け出した慈郎は、鋭く払われた手に困惑する。滝は笑顔のままだ。
「オレ、レギュラーじゃないから。だから行かない」
「そ……う、なの?」
「うん」
 笑ったまま同行を拒む滝を、慈郎は奇妙に見る。滝の言うことが分かったわけではなかったが、跡部と打つことの方が先だと考えて、慈郎はあっさりと滝を置いて駆け下りた。彼が今まで強く掴んでいた滝の手首には白い跡が残っていた。
 とおくからでも聞こえる大声で、慈郎は跡部に声を掛ける。どこまでも明るい調子に、「今までどこでサボってやがったこの野郎!」という跡部の罵声が飛ぶ。周りの部員たちが一斉にビクリとするのが、上から見ていて面白かった。その内、跡部と慈郎のラリーが始まる。ネットにばかり出たがる慈郎に、少しは苦手なものを減らせ、と跡部が再び怒鳴りつける。慈郎は楽しそうだ。そして、強い。
「慈郎は強いね」
 滝は立ったまま、二人がいるコートを見下ろしていた。笑顔は深い。自分の部員を傷つけることは出来ない跡部は、なんの技も出さないで慈郎と打ち合っている。そうすると随分、そのラリーは様になって見えた。
「オレは強い慈郎が好きだよ」
 跡部には及ぶべくもないけれど、跡部の力になってくれる。だから好きだよ、と滝は呟く。好きだよ、好きだよ、本当に好きだよ。跡部の役に立てる慈郎が好きだよ。
 慈郎が滝に「好きだ」と言ったとき、滝は決めていた。オレは何の役にも立たないから。だから強い慈郎が欲しいものは、なんでもあげようと。自分が出来る全てを慈郎にあげようと。滝はその時だから、笑った。出来ることが見つかって、嬉しかった。
 そして今も、笑っている。視線の先には、慈郎を怒鳴りつけながら、それでも楽しそうにボールを打つ跡部がいた。



慈郎×滝というか慈郎×滝→跡部。
滝はせつないのがよく似合う(=幸せになれない子)。
20030919up