強く、弱く





 雪のちらつく、底冷えする日曜日の午前。



 すりきれて、表紙の取れた英和辞書を、ベットの上に放り投げた。容赦ない英単語の羅列に頭は煮詰まり溜め息がでる。机につっぷす。そのまま落ちた手は上から二段目の引き出しに。既に習慣になってしまった動きで取り出したのは、半分以上減った煙草とまだ新しい灰皿にライター。部活を引退してから覚えた煙草は、最初から、美味いものとは思っていない。しかし、どうしようもない苛々を、あさってにやりすごすのに向いていた。別に好きな訳ではない、だから、銘柄は気にしない。現在愛飲中なのは、父親の予備カートンからかすめたハイライト。
 今日も今日とて休日出勤の両親に、ほんのわずかな申し訳なさを感じながら、窓を大きく開ける。エアコンの効いた生ぬるい室内に、ヒュウと吹き込む冷たい風。混じる粉雪。それを心地よく顔に浴び、無味のフィルタにガシリと噛み付く。風に揺れる、人工の炎を手のひらで守って、からい煙を肺に流す。はあ、と吐き出す気体が白いのは、果たして外気が冷たいからではなくて。社会的にも体にも、悪いことをしているのだと、分かっていても気分が落ち着く。我ながら苦笑。
 ぼお、と、窓に寄りかかり、白い気体を吐き出し続けること数分間。その間、地上4階のマンションからは、それなりにそれなりな景色が望める。内と外の温度差で、くもった眼鏡で見下ろした、寒さと雪に白く霞んだ住宅街は、さすがにシンとしている。聞こえてくるのは幹線道路のこだま程度。
 さむいからね、と呟いて。半分以上を吸った煙草を灰皿に押し付けた。さて、いい加減ベンキョしよーね自分、と、自身をさとして励まして、放り投げた英和辞書を回収しなけりゃと考える。しかし本音のところ、内部進学試験など、対策練るだけカッタルイ。もっとも、だからと言って全く捨てきることが出来るほど、良い度胸をしている訳でもない。
 現実逃避そのものに、何の面白みもない景色から、目を離すことが出来ないでいる。ぐずる子供のような自分に、時間の無駄だなあと、も一度苦く笑って。


 何分か、たって。
 開け放した窓からは、冷たい風が吹きすぎる。暖かくよどんだ空気をとりさって、清々しいが芯まで冷やす温度が室内を満たす。窓枠に寄りかかる右肩は、徐々に体温を下げていく。外は、変わりない、白くくすんだ冬の空。そして、地上に見るのは、すこし離れた遠くの公園。
「馬鹿だね」
 正確に言えば。見るのは、公園で、黙々とメニューをこなす、少年。後輩。海堂、薫。こんな日ぐらいさぼってみてもいいだろうに、ただ黙々と、基本に忠実な自己練習をこなす。軽い走りで公園に入り落ち着くと、しっかり体をほぐして、まずは前後ダッシュ。たぶん次は素振り。そしてランニング。それらは随分前に、自分が作ってやったものと、ほぼ同じ内容だった。あの時よりずっと強くなった彼は、量をさらに増やしているものの、基本は自分が作った時のまま。あきれるくらい忠実な基礎練。
 黒のジャージを着る彼からは、白い湯気が立ち上る。彼の熱が冷たい空気に溶かされて、気体となる、白。それはそのまま粉雪に混じる。白い空、白い雪、白い蒸気、黒い彼。誰もいない公園内を独り占めにして、ただ寡黙に走りこむ。
 そこにあるのは、殉教者のように静かな激情。
 誰に強制されているのでもない、自分ひとりで自分を極限まで追い詰める。
 体をこわしては元も子もないのだと、ダブルスを組んでいたころ、いやその前から、何度言ったか分からない。どうしてそこまで、という問いに、強くなりたいと、馬鹿の一つ覚えで繰り返した。頑是無い子供のような彼に苛々して、きつい言葉を投げたことも、一度二度ではなかった。

『海堂は、手塚のように、なりたいのかな』
 部長不在のままで戦う緑山戦を前に、海堂はいつもに増して体をいじめるような練習をしていた。結果、部活中に鈍く呻いてコートに転がった。右のふくらはぎを、おかしくしていた。すこし筋肉を休ませれば治る、軽度のものだったけれど、頭の奥が冷えるような衝撃だった。そして、木陰で休む海堂の隣に立って、自分は言った。
 海堂は、いつものように『ウルセエ』と、小さく吐き捨てたあと黙り込む。いつもならここで、畳み掛けるように過度の練習の弊害をまくし立てたが、その時はもう、何をどういえば海堂が理解してくれるのか、必死で考えていた。密度の濃い沈黙が降りた。
『休むのは、怖いッス』
 海堂は、ポツリと、言った。こちらを見上げるでなく、俯くでもなく、正面の、皆が練習するコートをじっと見つめて。『物凄く怖い』と、繰り返した。
 オレは、何と返せばいいのか、分からなかった。

 黒くて白い彼は、ダッシュをおえて、素振りをはじめる。何回するかは読めなかったが、そう早くは終わらせるまいとアタリをつけた。そして、窓をピシャリと閉めて鍵をかける。さっき投げ出した英和辞書を拾い上げると、そのままサクサクと長文読解をはじめる。
 煙草より新鮮な空気より何より、彼が自分に及ぼす影響は大きいらしい。彼に恥じないようありたいと思えば、あれほど難解に思われたパラグラフが、馬鹿みたいに簡単に読み解けた。さっさと仕上げて、ついでに古文も片付ける。ハイライトのソフトケースをグシャリと捻り潰した。灰皿と一緒に、ゴミ箱に投げ込む。
 その足で、大分ご無沙汰だったトレーニング着を手に取る。大急いで着替える。
 夏に彼の言葉を聞いたとき、教会で祈る人たちを思い出した。ひざまづき、堅く目を閉じ手を組ませ、何事かを呟き続ける。神に信仰を伝えるためと言うよりも、怯える罪人の必死な命乞いのように見えて、内心ぞっとしたのだ。神を怖がる人たちは、どこか彼と良く似た印象を与える。彼が怖がるのはきっと、自分自身なのだろうから、オレがどうこうすることは出来ない、それでも。
「海堂が怖がるのが神様だったら、信仰なんてオレが壊したのに」
 彼自身を壊すことは、出来ない。だからせめて出来る範囲で、彼が苦しむことの少ないように。
 扉を、あけた。
 




薫さんは殉教者のようで見ている人を切なくさせると思います。
20030126up